イエスキリスト誕生

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イエスキリスト誕生

イエス キリスト当時のユダヤ教

洗礼ヨハネ

 

イエスキリスト誕生

今日世界中に10億を超える信者を抱えるキリスト教の信仰の中心であるイエスキリストは今から2000年前イスラエルのベツレヘムで誕生したとされます。イスラエル民族のメシヤの到来への期待を背にした誕生でした。

受胎告知教会現在のナザレの地で、ある時聖母マリヤは天使長ガブリエルからお告げを受けたとされます。

「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう。」---「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」
(ルカ1/31-38)

これを記念して、326年コンスタンチヌス大帝の母ヘレナの頼みにより、マリアの家の跡とされる場所に築かれた教会が中東最大のキリスト教会である受胎告知教会です。受胎告知教会には世界各国のイエスキリストを抱いたマリヤの肖像画があります。日本のものもあり、面白いことにマリヤは着物を着ており、イエスキリストは牛和歌丸のような雰囲気をもっています。

受胎告知教会   受胎告知教会

その後マリヤは親戚のエリサベツに会いに出かけます。

立って大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家に入ってエリサベツに挨拶した。---マリヤはエリサベツのところに三ヶ月ほど滞在してから、家に帰った。
(ルカ1/39-56)

現在のエルサレム郊外のエインカレムという地に昔ザカリヤの別荘があったとされ、マリアがエリサベツを訪ねたことを記念して建てられたマリア訪問の教会があります。マリヤがエリサベツを訪問した際エリサベツは妊娠6ヶ月であり、胎内の子がマリヤの訪問とともにおどったとされています。

三ヶ月後、マリアは婚約者ヨセフのいるナザレに戻りました。その時マリアは身重になっていました。ヨセフはどれほどびっくりしたでしょうか。しかし、天使が夢に現れてマリアのお腹の子は聖霊によって身ごもったものだと諭されます。科学者の間では卵子に刺激を与えると細胞分裂が始まり、妊娠する可能性もあるなど様々な研究がされたというような話もあります。そのあたりはあまり深く考えるべきではないのかもしれません。

現在日本でも何年かに一度人口調査(国勢調査)が行われていますが、イエス キリスト誕生の時にも大規模な人口調査が行われたようです。イエスの母マリアとヨセフは登録をするためにナザレからはるばるベツレヘムまで旅したようです。ちょうどベツレヘムに来ているときにイエスが誕生したようです。イエス誕生が西暦の始まりというのが通説ですが、ちなみに当時人口調査を行なったのはローマ皇帝による紀元前7年とシリア提督の行なった紀元前6年であったと言われています。

聖誕教会エルサレムの南の端れ、ベツレヘムにある聖誕教会の中に小さくて暗い岩屋があります。そこでイエスキリストが生まれたとされています。イエスが誕生したときユダヤの地を統治していたのがヘロデ王でした。イエス誕生のその時、ヘロデ王のもとに東から来た博士たちが来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」と尋ねたとされ、それを聞いたヘロデ王は自分の地位を脅かすものとして恐れ惑い、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺すよう命じました。

それに対し天使が夢でヨセフに現われてエジプトへ逃げるように警告したとされています。そしてヨセフ一家はヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在し、ヘロデ王の死後イスラエルの地に戻ったそうです。モーセの誕生と出エジプトの話のパターンにどことなく似ています。ヘロデ王が亡くなった年は紀元前4年であり、以上のことからキリストが生まれたの本当の年は紀元前7〜4年と考えられています。

ところでここで出てくるヘロデ王はソロモンに匹敵する建築魔と言われ、壮麗な建築物を多く建設しており、それが今イスラエルの観光名所となっています。イスラエルの商業と産業の中心テルアビブから50kmほど北上したところに位置するかつてローマの総督府が置かれた町カイザリヤには円形劇場を始めローマ風の遺跡が数多くあります。70年のユダヤ戦争最後のユダヤ人が立てこもり自害して果てた死海沿岸のマサダの遺跡もヘロデ王が建てた宮殿跡です。


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イエス キリスト当時のユダヤ教

今でこそメシヤとして世界中のキリスト教徒によって信奉されているイエス キリストですが、その当時はどうであったのでしょうか。聖書の記述によると、ユダヤ教の指導層からは煙たがられる存在であったようです。特に次に挙げるパリサイ派から迫害を受けたようです。

イエスの時代、ユダヤ教はいくつかのグループに分かれていました。主なものはサドカイ派、パリサイ派、エッセネ派の3つでした。

1)サドカイ派

モーセを始めとする過去の預言者たちの残した教典のみを重視しました。学問として教えを捕らえていた学者たちが主でした。

2)パリサイ派

タルムードを重視し、ラビの言葉を重視しました。タルムードはユダヤ人のバビロン捕囚と同時代に生まれたユダヤ教典のうちの一つであり、口伝律法の集成です。タルムードは他民族によって迫害され続けた反動でユダヤ人選民思想的な側面が強調されています。

イエスの時代、ユダヤの地はローマの支配下にありました。ローマ人総督の下、王と議会が存在しました。この議会を「サンヘドリン」と呼びました。王もこの会議の決定には逆らえませんでした。パリサイ派はサンヘドリンに大きな影響力を持っていました。

3)エッセネ派

律法を特殊共同体的環境の中で遵守しようとしたグループです。その中核部分がクムランに隠遁したクムラン教団であったようです。クムラン教団とは紀元前二世紀中頃成立した、祭司的要素を基とした特殊共同体で、死海のほとりのクムランの隠遁所で律法を徹底的に守りながら、近い終末に備えようとしていたとされます。エッセネ派の倫理規範は共同体倫理と愛に基づいていました。イエス キリストのようにしばしば譬えや比喩を用いて語ったようです。星を読み、未来を予測し、治療を行ったともされます。また紀元前250年にインド皇帝アショカ王が派遣した宣教師によって伝えられた仏教の思想を採用したと言われています。イエス キリストの親戚洗礼ヨハネはエッセネ派に属していたようです。

「ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。ヨハネはらくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。」
(マルコ1/5-6)

このような川で洗礼を授けたり、修道生活を送るというのはインドの影響を受けていた証拠と考えられます。

(引用した資料)

GENESIS APOCRYPHON

洗礼ヨハネ

新約聖書によると、イエス キリストは本格的な活動を始める前に洗礼ヨハネを訪ね、ヨルダン川で洗礼を受けたとあります。洗礼ヨハネは、かねてより自分は水で洗礼を授けるが、自分のあとから来る人は、火と聖霊とによって洗礼を授ける方であり、自分は彼の靴を脱がせてあげる値打ちもないと証言していました。(マタイ3/11)

「そしてイエス キリストが訪ねて来たとき、神の予言どおり、御霊がイエス キリストに下ってとどまるのを見て、神の子であるとあかしをした。」
(ヨハネ1/33-34)

洗礼ヨハネは、当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれました。

「ザカリヤが聖所で香を焚いていたとき、その妻が男の子を懐胎するだろうという天使の言葉を信じなかったために唖となったが、ヨハネが出生するや否や口がきけるようになった。この奇跡によって、ユダヤの山野の隅々に至るまで人々を非常に驚かせた。」
(ルカ1/8-66)

また荒野での修道生活と民衆に罪の悔い改めをさせ、洗礼を授けるなどの活動により、救世主を待ち望む民衆は洗礼ヨハネがメシヤではないかと考えたほどでした。(ルカ3/15)このように洗礼ヨハネは当時の全ユダヤ人から一目置かれる存在でした。

洗礼ヨハネの誕生前にザカリヤに現れた天使は洗礼ヨハネの将来を以下のように予言していました。

「エリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう。」
(ルカ1/17)

エリヤというのはソロモン王朝の後、王国が南北に分裂した時代の代表的な預言者で、メシヤの到来に先がけて再臨すると信じられていました。

この洗礼ヨハネがイエス キリストと共に宣教活動をしていれば、イエス キリストの生涯はまた違ったものになっていたかもしれません。しかし実際はイエス キリストはユダヤ教指導者から迫害を受け、最後には十字架にかけられ、ユダヤ教とイエス キリストを信じる集団が袂を分かち、最終的にユダヤ教とキリスト教という別の宗教に別れていきました。

当時のユダヤ人たちの願いはもちろんメシヤの降臨でした。しかし、同時に聖書の預言にあるメシヤの前兆とされていたエリヤの到来をも待ち望んでいました。そのような状況下でイエス キリストがメシヤであるというような集団が現れたため、特にユダヤ教指導者に混乱をもたらしたようです。洗礼ヨハネがエリヤの生まれ変わりだとなれば、話はうまくいったのかもしれませんが、聖書の記録によると、洗礼ヨハネ自身が自分はエリヤでないと否認していることから混乱は収まるどころか、さらに大きくなっていったようです。

さてこの洗礼ヨハネの最期は「サロメ」というオスカー ワイルドの戯曲で有名です。この作品はオペラとしても上演されたことがあります。

当時のユダヤのヘロデ王は腹違いの兄弟の妻ヘロデヤと愛人関係になりました。洗礼ヨハネは「兄弟の妻をめとるべきではない。」と非難したことで、投獄されました。ある時ヘロデヤの娘のサロメがヘロデ王の前で見事な踊りを披露しました。ヘロデ王はその褒美に望みのものは何でもつかわすと言ったところ、サロメが望んだものは洗礼ヨハネの首でした。

イエス キリストをして女の生んだ者の中で洗礼ヨハネほど大きな人物はいなかったとまで言わしめた人物の最後にしてはなんともあっけないものでした。以後イエス キリストは当時のユダヤ社会の下層階級や弱者を中心にして支持され、反対にユダヤ教指導者など上流階級からは反対されるようになっていきました。

イエスの足跡1 に続きます。