中世イスラム社会ではユダヤ人は税金を払いさえすれば、信仰の自由が認められ、ひどい差別を受けることはなかったようである。それとは対照的に、中世ヨーロッパ
キリスト教社会においては、ユダヤ人を嫌悪する差別感情が強くユダヤ人は苦難の生活を強いられたようである。中世キリスト教社会におけるユダヤ人差別の背後には「キリスト殺し」、「キリストの最大の敵」としてのユダヤ人観がある。
紀元28・29年頃、イエス
キリストはローマのユダヤ提督であるポンテオ
ピラトにより、十字架刑を言い渡される。聖書によるとピラトはイエス
キリストを死刑にする意図はなかったようだが、ユダヤの民衆の強い要求により、極刑に処したとされている。ユダヤの民衆はイエス
キリストの血の代償が後孫に及んでも構わないと言ったとされている。この聖書の記述によりユダヤ人はキリスト殺しの張本人であり悪者になっている。特に祖国を失い、流浪の民として、キリスト教世界に居候のような身になってしまうと、肩身の狭い身となるわけである。ユダヤ人の祖国建設のシオニズムの背景には、祖国がないがゆえに肩身の狭い思いをし、迫害されてきたという意識がある。
ひとつ疑問に思うのは、キリスト教徒にとってイエス
キリストの十字架は人類救済の神の御業であるわけであるが、それをもたらしたのがユダヤ人となると、なぜそれほどユダヤ人をキリスト殺しの悪者扱いしなければならなかったのであろうか。また全てのキリスト教徒がそうであるのは分からないが、十字架は罪人たる自らがもたらしたものであると考えると小説「塩狩峠」にあった。そうであればユダヤ人だけがキリスト殺しの悪者ということにはならないであろう。
人間というのはえてして自分よりも劣った存在を見て、自分の優越性を感じようとしたり、日常の欲求不満を解消しようとしたり、一種の安心感を感じようとしたりする弱さをもつ。
日本でも江戸時代にはえた、非人という階層の人々をつくりだしていたが、中世ヨーロッパ
キリスト教社会においてはユダヤ人がキリスト殺しの名目のもとそのような階層に置かれたのであろう。
ユダヤ人に対するひとつのイメージとして金融界を牛耳っている大金持ちという姿がある。最近、「お金持ちのユダヤ人が住みたいと思うような国が豊かな国だ。」という発言が問題発言とされたことがあったが、この発言の主はユダヤ人のそのようなイメージをもっていたのであろう。
ユダヤ人は確かに金融業に長けている様であるが、中世ヨーロッパ
キリスト教社会においてユダヤ人は金融業に従事するしかなかったという背景があるようである。
中世ヨーロッパ
キリスト教社会においてユダヤ人の職業は制限されており、ユダヤ人ができるのはキリスト教徒が忌み嫌う職業に従事するしかなかった。当時のキリスト教は他人に金を貸して利息を取ることは罪悪であると考えていたので、キリスト教徒は金貸し業にはつきたがらなかった。そこでユダヤ人は金融業に従事するようになったというのである。ちなみにイスラム教でも他人に金を貸して利息を取ることはよくないこととされているようである。そこで中世のイスラム社会においても金融業にはもっぱらユダヤ人が従事したようである。
金融業で成功すると金に汚い高利貸しというイメージが生まれやすい。それがまたユダヤ人に対する見方を悪くしたのであろう。
(引用した資料)
ユダヤ問題特集
中世におけるユダヤ人迫害