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○パレスチナ独立か、いなかのXデー、1999年5月4日

1999年5月4日というのは1995年9月に結ばれたイスラエルとパレスチナの和平協定であるオスロ協定の期限の切れる日である。イスラエルはパレスチナ地区からの軍の撤退を進め、パレスチナの自治権を拡大する代わりに、パレスチナはイスラエルに対するテロを撲滅するというようになっていたが、思うように進まずに今日に至っている。

パレスチナ自治政府のアラファト議長はオスロ協定の期限切れと共に、パレスチナの独立宣言をしようとする動きが昨年から目立ってきた。昨年9月には、アラファト議長はパレスチナ独立国家の創建への支持をアラブ連盟に求め、また次のように語った。『我々はパレスチナ国家を宣言する意志があり、その発表はアラブ諸国の支持を得るであろうし、国際的支持をも得るであろう。』そして様々な権力拡大策を講じている。

パレスチナ政府は自治領の拡大と西部での影響力を得るためのキャンペーンの一環としてイスラエル内のキリスト教会を管理下に置くための努力を払っている。その試みは聖誕教会を含むベツレヘムの教会から始まった。現在エルサレムの教会、キリスト教聖地にもその試みは拡大されている。その中には聖墳墓教会、マグダラのマリア教会も含まれている。現在聖誕教会にはパレスチナ自治政府の旗が掲げられている。そして昨年11月24日にパレスチナ自治政府のガザ地区にパレスチナの国際空港が開港した。3年に及ぶイスラエル、パレスチナの交渉の成果である。これは広くパレスチナ国家設立へのステップとしてみられている。

イスラエルのネタニヤフ首相はこのような動きを全く認めておらず、米国もパレスチナ自治政府による一方的な独立宣言に対して反対の立場を取っている。それに対して、アラファト議長は米国による将来的な独立の承認を条件に今年5月に予定している独立宣言を遅らせる準備があるとの意向もあるようである。イスラエルの新聞HA'ARETZ はパレスチナの独立宣言が出されるもう一つの可能性として、今年12月31日を挙げている。その日はベツレヘム2000年の祭典のクライマックスである。

○1999年イスラエル総選挙とその結果

1999年5月17日、イスラエルの総選挙が行なわれ、首相選挙も同時に行なわれた。イスラエル国会はクネセットと呼ばれる。1院制で定数120名。国会の解散権は首相にはなく、投票で過半数が必要。選挙は比例代表制。選挙区はひとつ。選挙権は満18才以上、被選挙権は満21才以上。尚、首相は1996年の総選挙から公選になっている。

イスラエルの議会は多数の政党から構成されており、一つの政党による単独政権ということはあり得まない。各党がいかにうまく連立し、政権をとるかということにしのぎを削る。現在のネタニヤフ政権のリクード党、労働党に次ぐ第三党に宗教党がある。この宗教党の発言力のためにイスラエル特にエルサレムは非常にユダヤ教の宗教色が濃くなっている。

安息日は人々の不便にかかわらず堅く守られている。超正統派という一部のユダヤ教篤信グループの利権が維持され続けている。そのことゆえに宗教者と世俗派との対立が起こったりする。信教の自由はあるが、これは個人的に信仰する自由であり、ユダヤ教以外の表だった布教活動は禁止されている。

首相選挙はネタニヤフ現職首相とバラク候補による戦いであった。ネタニヤフ首相はパレスチナに対し、パレスチナ地域に新しいユダヤ人入植地をつくるなど強硬な姿勢を示してきた。選挙の行方は中東和平に大きく関わるものであった。選挙後イスラエルとパレスチナとの長年の問題である、両地域境界線、難民の扱い、エルサレムのステイタス、パレスチナ自治政府の立場などが話し合われる予定であったからである。

首相選挙は労働党首のバラク候補の勝利に終わった。バラク氏をより柔軟性のある人物として見た米国、ヨーロッパ、アラブ諸国の指導者はバラク新首相誕生を歓迎した。

しかしながらほとんどのイスラエル人は(バラク氏に投票した者を含めて)新首相がどのような政策をとるか見当がつかない。バラク氏はラビン首相時代内務相、ペレス首相時代外務相を経験しているが、大した印象を人々に与えていない。バラク氏への支持票は心からの支持というよりはネタニヤフ前首相への幻滅から来るものが多いようである。その結果支持票を投じた者でもバラク氏の政策に関してはほとんど知らないようである。

バラク新首相は同じ労働党出身の故ラビン元首相にように積極的にパレスチナに対して譲歩してまで中東和平の進展を目指すか。独立という選択枝を持ち出してきているパレスチナとの関係はどうなるか今後が注目される。故ラビン元首相はユダヤ人右翼学生の凶弾に倒れた。今回の選挙で一番の勝利者はユダヤ教超正統派で、国会の議席の15%を占めるようになった。(超正統派の中には世俗的イスラエルの国家を認めず、パレスチナを支持するような人もいるようであるが)難問は多い。

○聖墳墓教会の新しい扉とその鍵の管理者

今後多くの巡礼者が見込まれる聖墳墓教会であるが、その安全上の対策からも新たな扉が開かれることが望まれていた。1840年に起こった火災の際には数十名の死亡者が出ている。またこれは教会の責任者たちにとっても悲願であった。というのは12世紀以降今日まで聖墳墓教会の唯一の扉の管理者はイスラム教徒であった。これは12世紀に十字軍を駆逐したアラブの英雄サラディンが聖墳墓教会の扉の鍵の管理権をめぐるキリスト教の教派争いを止めさせるためにイスラム教徒の手によって管理されるようになって以来続いていたものである。新しい扉の鍵の管理は教会各派の責任者たちにまかせられるそうであるが、再び教派争いが起こらないことが望まれる。

○アラファト議長はオマールの霊的後孫?

アラファト議長は1999年8月4日、エルサレム近郊のラマラで70歳の誕生日を迎えた。その席で、「近い将来我々の子供たちがパレスチナ国旗をエルサレムのモスクと教会にかざすときが来るであろう。我々は葛藤を続けてきたが、再びイスラム教徒が最初にしたようにエルサレムに入るであろう。」と語った。

イスラエル側はこの発言に神経をとがらせている。特にモスクと教会としたこと、イスラム教徒が最初にエルサレムに入ったときのことを触れたことに対してである。イスラム教徒が最初にエルサレムに入ったのは7世紀のことである。その際ビザンチン帝国のエルサレム統治者であったキリスト教徒ソフロニウス主教はイスラムのカリフオマール カタブに戦わずして降伏している。アラブ側の記録によるとその際の条件はユダヤ人をエルサレムに住ませないことであったそうである。ここ数年アラファト議長は度々自らをこのオマールの霊的後孫である述べているそうである。

○ファーストフードチェーン店の展開にも影響を及ぼす中東問題

米国のイスラム教徒のいくつかの団体が1999年8月5日ワシントンDC近郊のハンバーガーチェーン点のバーガーキング前で、東エルサレムの近郊のマアレ アドミウムでの同店開店に反対するデモを行った。マアレアドミウムはパレスチナ占領区のユダヤ人居住区である。筆者は同地区に3ヶ月滞在したことがあるが、非常に近代的で草花が植えられた美しい地区であった。しかしそれに対し周辺のパレスチナ人地区はみすぼらしく、イスラエルとパレスチナの問題を目のあたりにすることができる所であった。

「American Muslims for Jerusalem」の代表はバーガーキングの同地区への進出は国際法を破る行為であり、同地区の店舗を閉店しない場合には、イスラム教徒による大規模な不買運動も辞さない構えである。バーガーキング側は政治問題に触れるつもりはなく、単に自らの商品を多くの人々に味わっていただく機会を提供しようとしているにすぎないと述べている。バーガーキングは世界中に1万を超えるチェーン店を展開しており、マレーシア、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビア、アラブ首長国連邦といったイスラム教国家にも店舗を持っている。

一方、マクドナルドは現在係争中の中東地区に店舗を構える計画はないようである。「The Ben Jerry's ice-cream」は昨年、イスラエルの店舗に対しゴラン高原を水源とする水の使用を禁じた。

その後、バーガーキングは米国のイスラム団体のバーガーキングボイコット圧力に折れた形でマアレ アドミウム店の閉店を決定したが、今度はユダヤ人側がその決定に対しバーガーキングのボイコットを呼びかけている。中東情勢の複雑さを露呈している問題である。問題の根本解決へ向けての中東和平の進展に希望がたくされる。

○ガザ地区とウェストバンクの間に連絡道路が開通

パレスチナ自治地区はガザ地区とウェストバンクに二分されており、今まで両地区をパレスチナの人々が自由に行き来することはできなかった。それが始めてパレスチナ人の管理の下、パレスチナ人が自由に行き来できる連絡道路が1999年10月25日開通した。1995年の交渉開始以来、4年越しの悲願達成である。パレスチナ自治地区が一つに結ばれたことは、1998年11月24日にガザ地区に国際空港が開港したことと合わせ、パレスチナ国家設立へのさらなるステップとしてみられている。