ゴラン高原

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1948年のイスラエル国建国以来、4次にわたる中東戦争を経て続いていたイスラエルとシリアとの間の紛争が1974年5月に両国間で兵力引き離し協定が締結され、停戦ラインが引かれた。そして国際連合平和維持活動として、シリア南西部のゴラン高原地域における両国間の停戦監視及び両軍の兵力引き離し等に関する合意の履行状況の監視を任務とする国際連合兵力引き離し監視隊(UNDOF)が設立された。日本の自衛隊はその活動支援ということで派遣されたわけである。しかしゴラン高原問題はそれほど簡単なものではなかったのである。ゴラン高原は面積約1150キロ平方メートル、東京都の約半分に当たる。そこは元々はシリアの領土であった。乾燥地帯で、水資源が非常に乏しい中東にあって、ゴラン高原は平均標高がおよそ600メートルで、冬には雪が降り、その雪解け水で、一年を通して水が豊富である地域である。

イスラエルは、ゴラン高原を戦略的に非常に重要な地域(イスラエルの水源)であるとし、入植地を停戦ライン沿いに建設して、1981年にはゴラン高原併合法案がクネセット(イスラエル国会)で可決され、イスラエルはゴラン高原は自国の領土であると主張し始めた。現在多くのイスラエル地図にはゴラン高原がイスラエルの領土として描かれている。ゴラン高原にイスラエル軍当局側から残留を許されたシリア人が現在約一万七千人ぐらいいると言われている。その多くは現在に至るまで国籍の取得を拒否し続けて、無国籍状態である。これをイスラエル側は現在に至るまで国籍を取得させようとして、強引な政策を取っており、常にイスラエルの当局、特に軍当局とゴラン高原に残留したシリア人との間の緊張関係は、今日に至るまで続いている。

イスラエルとシリアの和平への道のり

イスラエルとシリアの話し合いでのシリア側の最も重大な関心事はかつてイツハクラビン元首相が言及した1967年6月4日の時点の国境線(ガリラヤ湖近辺)までのイスラエルの撤退に関してである。ゴラン高原のコミュニティは主に1992年にラビン首相を支持した労働党の活動家によってつくられた。彼らがラビン首相を支持したのはゴラン高原から決して撤退しないことを公約していたからであった。しかし同首相は後に前述のようにゴラン高原からの撤退といった公約を翻すような姿勢を示した。その際同コミュニティは全国規模のゴラン高原死守活動を展開した。しかし今回の違う点はバラク首相が選挙前にすでにライバルのネタニヤフ候補に比べシリアに対し譲歩の姿勢を示していたにもかかわらずバラク首相が57%の得票率を得て当選したことである。バラク首相のシリアとの和平実現へ向けての意向を受けて、ゴラン高原住民も二つに分かれている。撤退となった場合に同住民は住居を失うことになるが、その補償についての話し合いに応じる姿勢を見せている者もいる。現在61%のゴラン高原住民が撤退に反対し、一方34%が補償の話し合いに応じるとしている。イスラエルは建国にはユダヤ人自身が置かれていた迫害の歴史、特にナチによる大量虐殺の経験を踏み、ようやく建国したという背景がある。それゆえ今まですべてのことに国防が優先されることに対しイスラエルの人々は当然のこととしてきた。時にはそれが過剰防衛となり、他から見ると侵略に過ぎないようなこともあった。国防に対する神経の注ぎかたは防衛費の国家予算に占める割合を見ればわかる。40%程度であると聞いた。しかし建国以来イスラエルに住むユダヤ人の死亡率と他国に住むユダヤ人の死亡率を比べると前者がはるかに高いという皮肉な結果が出ている。今周辺諸国との平和的共存をはかるべき時が来ているように思われる。ゴラン高原コミュニティの問題はパレスチナ占領地区のユダヤ人居住区も同様に抱えているが、相互理解と譲り合いの姿勢で、早急な平和的解決がなされることを願う。