エルサレム問題

パレスチナ問題の発端
3宗教の和解の試み
2001年の動き
2000年の動き
1999年の動き
ゴラン高原
エルサレム問題
レバノンとの和平
シリアとの和平
神殿の丘
守りの盾作戦

サイトマップ

 

 

1998年にバラクイスラエル政権が誕生してイスラエルとパレスチナの和平交渉の進展が期待されたが、乗り越えなければならない障害は大きく、パレスチナ自治区の恒久的地位を確定し、和平協定を締結するには至らなかった。

イスラエルのバラク首相(当時)とパレスチナ自治政府アラファト議長(当時)は1999年にラマラで直接の会を開催したが、両者の非常に大きなギャップを埋められなかった。 バラク首相はエルサレムとパレスチナ難民の問題をさらに数年棚上げする代わりにガザとヨルダン川西岸地区のおよそ2/3のパレスチナ主権を容認するという妥協案を提示したが、パレスチナ自治政府側はそれを拒否した。

バラク首相とアラファト議長は3月半ばに会談を行い、5月中旬までに恒久的地位問題についてのフレームワーク合意を行い、6月末までに最終的なイスラエル国防軍の撤退、および9月中旬までの最終和平条約締結を試みた。その会談は米国ワシントンDCで2回、イスラエルのエイラットで1回と3回にも及ぶものであったが、残念ながら成果は上がらなかった。

イスラエルとパレスチナの両者の間に横たわる最大の問題がエルサレム問題である。

イスラエル建国(1948年5月15日。パレスチナの人々はその日を「アル ナクバ(アラブ語で破局の日を意味する)」と呼び、自らの悲惨な運命の始まりの日としている。)の際、エルサレムの西半分(現新市街)がイスラエルの領土下に置かれていた。ちなみに東半分はヨルダン領になっていた。1949年には西エルサレムに首都が移されたが、日本を含め、国際社会はこれを認めず、そのため現在でもほとんどの国の大使館はテル アヴィヴにある。

1967年の第3次中東戦争(6日間戦争)でイスラエルがエルサレムの東半分を制圧するまでエルサレムは東西ドイツ統一前のベルリンのように壁で東西に分断されていた。、この分断状態は続くことになる。第3次中東戦争において、イスラエルは大きく占領地域を広げることになり、シナイ半島を除いてはこれが今日に至るまでイスラエルの占領地として実質的にその支配下に置かれることになった。1967年一応エルサレムは一応統一される。しかしその統一は戦争によるものであり、ユダヤ人とパレスチナ人の同意による平和的な統一ではなかったために現在に至るまで問題を引きずっているのである。

1967年以来のイスラエル政府のエルサレムに関係する政策もユダヤ人中心に立てられてきた。

1、併合した東エルサレムにおけるユダヤ人の多数人口を確保する。
2、エルサレムとヨルダン川西岸との間に連続的なパレスチナ人居住地域が建設されることを防止する。
3、エルサレムにおけるパレスチナ人の居住権に対する各種制限措置。
4、エルサレム外にすむパレスチナ人が仕事や礼拝などで市内に入ってくることを厳しく制限する。

エルサレムをめぐる問題は政治的側面のみならず宗教的側面をも持ちあわせているので、複雑である。3宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の聖地であるエルサレムは神が選んだ聖なる場所として考えられている。それゆえ現在に至るまでの中東和平交渉では、エルサレムの帰属については、パレスチナ自治区の恒久的地位交渉で議論されることとして、エルサレムの現状変更は行わないことで先送りされてきた。

しかしパレスチナ自治区の恒久的地位を確定し、和平協定締結を行うためにはエルサレム問題を解決する必要がある。東エルサレムに隣接するパレスチナ人居住地Abu Disをパレスチナ側の首都とするといった構想も非公式だが議論されていた。しかし Abu Dis などエルサレム周辺のパレスチナ人地域をパレスチナ側に譲渡することには保守系ユダヤ人は大きく反発する。

現在イスラエル北部のレバノンとの国境でもテロが相次ぎ、イスラエルとシリア、レバノンの和平実現への道のりの厳しさをあらわしている。ユダヤ人がどれだけ周囲のイスラム勢力に譲歩できるか、相互の不信感と憎しみを捨て、共存共栄の道を模索できるかが新しい中東を開く鍵であるように思える。それを実現するためには特に大国のエゴでこの地域を振り回してきた欧米諸国の無条件の協力も必要であろう。そして宗教者はお互いが信じるものを尊重し合うことが重要であろう。

(参照した資料)

第3セッション:A City of Interactions: Jerusalem