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ドキュメンタリー映画「プロミス」 今日の複雑な中東情勢をつくりだしたもとは、第二次大戦前、同地域を植民地支配していた英国の二枚舌外交と、第二次世界大戦後の国連による同地域の処置に慎重さを欠いたことによるものが大きいようである。イスラエル建国前は現在のイスラエルのある地域全体をパレスチナと呼び、長い間イスラム教徒によって治められていた。ユダヤ人も少数ながらキリスト教徒と共にイスラム政権下のもと共存していた。第一次世界大戦以前、東アラブ地域(現在のレバノン、シリア、パレスチナ、イスラエル、イラク、ヨルダン)はオスマン トルコの領土だった。当時オスマン トルコの弱体化により、西欧の列強が同地域、特にエルサレムに注目し始めていた。エルサレムをイスラム教徒の手から奪還するというのは十字軍のとき以来のキリスト教徒にとっての悲願であった。第一次世界大戦中、英国は自国に有利にことが運ぶように以下のような二枚舌外交を展開した。
英国は、パレスチナという同じ札をアラブ、イスラエル双方に出したのである。第一次世界大戦終了後パレスチナはイギリスの委任統治領となったが、英国は第一次世界大戦中にした二枚舌外交の代償を払わなければならなくなる。第一次世界大戦終了後から第二次世界大戦終了までユダヤ人移民がパレスチナへ大量流入し、それに対するアラブ人の大反乱が起こった。第二次世界大戦終了後、英国は手におえなくなったパレスチナ問題の解決を国連に委ねた。これを受けて1947年11月、国連総会はパレスチナをアラブ、ユダヤの2ヶ国に分割し、エルサレムおよび周辺地域を国際管理下におくというパレスチナ分割案をアラブ諸国の猛烈な反対にもかかわらず、採択した。アラブ諸国はそれを不服としてアラブとイスラエルの長きにわたる中東戦争へと突入することになった。イスラエルは対アラブの戦略的重要性から、欧米、特に多数の強力なユダヤ人勢力を抱える米国の支援により、1948年5月1日独立後、次第にパレスチナ地域に不動の位置を定め、パレスチナ地域全域を手中に治めるに至る。このような国際社会の成り行きに振り回されたパレスチナ地域に元々住んでいた住民たちは悲劇にさらされたのであった。そのような中がパレスチナ人の地位向上のために立ち上がり、結成されるようになったのがPLOである。
エジプトのカイロ大学のパレスチナ学生の組織「パレスチナ学生連合」の主要メンバーを中心にして1950年代末、「ファタハ」が結成された。「ファタハ」は、パレスチナ解放を目的とし、イスラエルに対してゲリラ闘争を挑んだ。そのリーダーがヤセル アラファト(現PLO議長)だった。PLOは1964年5月に結成された。1969年にアラファト氏がPLO執行委員会議長に就任した。その後、アラファト議長はPLO内現実派として国際交渉に活躍、国連でパレスチナ人の権利を認めさせるのに成功した。それと共にPLOはイスラエルの抹殺という当初の目的を変更し、イスラエルとの共存をはかるようになる。
現在日本をはじめ世界の多くの国がヨルダン川西岸・ガザ地区に対するイスラエルの占領行為を国際法上の違法行為にあたるとしており、PLOをパレスチナ人を代表する有力な組織として認めている。(ただし、PLOが暫定自治を行うことを定めているだけで、将来において独立国家が樹立されることまで保証するものではない。)国家でない地域に対して援助ということで、特殊なケースとしてではあるが、多くの国がPLOに経済的援助を行っている。ちなみに日本の場合は世界銀行や日本・パレスチナ開発基金などの国際機関を通じての援助を先行させていくという形を取っている。
1988年、アルジェで開催されたPNC(パレスチナ民族評議会)は、パレスチナ国家独立を宣言した。そしてアラファト議長は、テロの放棄、イスラエルの生存権の承認を表明した。 (引用した資料)
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