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仏教(Buddism)

一、仏教の基本

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仏教は釈尊の悟りから出発

釈尊はシャーキャ族の王子として誕生する。物質的には何の不自由もなく育つ。しかし生・病・老・死の問題に深く悩み、29才の時に父王、妻、子供をおいて出家する。

1、出家修道と六年に及ぶ難行苦行:苦行生活をするがそこにも安らぎを求めることができなかった。来世で安楽を得るために厳正で苦行するという考え方に疑問を感じた。
2、菩提樹の下で深い霊的境地に入り神通力、神霊力を備えた。
3、悪魔の試練を乗り越えた。悪魔は美しい3人の娘によって色仕掛で堕落させようとしたが、なし得ず次に種々の暴力によって屈服させようとした。如何なる暴力・武力にも屈しないという釈尊の内的な強い覚悟によって悪魔はついにあきらめる。

釈尊が悟った内容

縁起の法と永遠の生命:全ての存在は空間的、時間的に相互関連し、因果関係にある

苦の解決:苦は縁によって生じる


お薦めの書籍


 

十二因縁:十二項目の苦の根本的原因の洞察

「無明に縁りて行生ず。行に縁りて識生ず。識に縁りて名色生ず。名色に縁りて六処生ず。六処に縁りて触生ず。触に縁りて受生ず。受に縁りて渇愛生ず。渇愛に縁りて取生ず。取に縁りて有生ず。有に縁りて生生ず。生に縁りて老死の苦しみ生ず。無明あますところなく滅すれば行滅す。行滅すれば識滅す。かくのごとくにして全ての苦は滅する。」

苦が生じる原因は渇愛で、渇愛は無明から来る。渇愛は過分な激しい欲望、利己的愛欲のこと。無明は真理に明るくないこと。霊的無知の状態

苦の解決は無明と渇愛を克服し滅し尽くすこと、それによって涅槃の境地を得て、解脱に至る。涅槃とは渇愛などの煩悩の日を消し去って得られる平安と安らぎの境地、知恵と慈愛に満ちた境地。解脱とは輪廻転生する苦悩の生存からの解放。

輪廻転生:インドの古くからの生命観で過去、現在、未来にわたって生死を繰り返しこの生死の輪廻は苦悩に満ちているとされていた。

四諦の法門(Four Noble Truths)

諦:真理を意味する十二縁起説に基づく実践的教え。苦諦、集諦、滅諦、道諦の四段階、これを通して人生の苦悩を解決できる

1) 苦諦:人生が苦しみに満ちていることが説かれている     

四苦
生病老死      

八苦 
愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)
怨憎会苦(憎む者と出会う苦しみ)
求不得苦(求めても得られない苦しみ)
五陰盛苦(心身から盛んに起こる苦しみ)

2) 集諦:苦しみを招き集める原因は渇愛であると説く

3) 滅諦:渇愛を取り除き苦しみを消滅した状態、涅槃

4) 道諦:涅槃に至るまでの道を説く

修行方法を示したもの:八正道

正見:縁起の道理によって人生、世界を正しく見ること
正思:正しい思い、意志
正語:正しく真実の言葉を語ること
正業:正しい善い行いをすること
正命:心と体と口の働きを正しくして、正しい生活をすること
正精進:正しい努力を重ねること
正念:正しい道を憶念し、理想目的を忘れないこと
正定:精神を統一し迷いのない清浄な境地に入ること、禅定

二、原始仏教の三法印

諸行無常:諸々の現象が生じては滅び生じては変化してやまないこと諸法無我:他と関係なく孤立して存在するものはない涅槃寂静:知慧が完成する悟りの境地

無常無我:実践のために説かれた教え

無常:変化してやまない永遠でないものに対する執着を切って努力、精進すべきことを教える
無我:無明煩悩多き自己に執着せず、我執を否定して他の為に尽くし、永遠者と一つになることを教える

原始仏教はこの三法印を説かなければ仏教ではないと主張した。仏教はその後上座部と大衆部に分裂し、たくさんの分派が現れてくる。紀元前後には改革運動が起こり、大乗仏教が現れてくる。

三、大乗仏教

日本、韓国、中国に伝わった仏教。インドから中央アジア、西域を経て伝えられた北伝の大乗仏教

日本には六世紀に百済の聖明王の使者によって伝えられた。高句麗の慧慈、百済の慧聰から仏教を学んだ聖徳太子は仏教を受け入れるに際し、多くの仏典の中から全ての者が救われると説く教典だけを選択した。

空の思想と菩薩道
因縁によって生滅する存在を有と無を越えて理解しようとする教え
有と無に対する執着を離れるために用いられた表現
自己に執着せず、他人を慈しんで奉仕をすべきであると慈悲の行いを強調。慈とは楽しみを与えること、悲とは苦しみを取り除いてあげること
慈悲の実践に励み完成をめざして修行する人を菩薩と呼ぶ
菩薩道こそ仏陀に至る道であると強調

原始仏教や部派仏教では、無明煩悩を滅し尽くすべきと説いていたが、大乗仏教では煩悩は即菩提、生死は即涅槃と説いた

煩悩即菩提:煩悩を転じれば悟りに通じる
生死即涅槃:生死輪廻の中に真の悟りと安らぎを得る 

無明煩悩に覆われた者であっても、その奥には清浄な本性があり努力すれば仏となる可能性、仏生を持っていると力説した

○永遠の仏陀観 

大乗仏教では仏陀を最高の理想像として仰ぎ、宇宙の生命を仏陀の本体としてとらえ、存在の根源を永遠の仏陀として理解した

華厳経の毘盧舎那仏、密教の大日如来、法華経の久遠本仏、浄土門の阿弥陀仏

奈良の大仏は毘盧舎那仏、鎌倉の大仏は阿弥陀如来

如来:真如(真理と存在の根源)から来るという意味

仏教は創造の神を説いていないが、永遠なる根源を説く思想が現れた。

四、鎌倉仏教

鎌倉時代に現れた新しい日本仏教の諸宗派は全て天台宗から出たものであり、天台宗は鎌倉仏教の生みの親の役割を果たしながら現在に伝えられている。

人間は本能的に恐怖や苦痛から身を避けようとする。人々に死を忘れず生死に真摯に取り組もうと言っても、むしろ人間は何とか死を忘れようと意識的にも無意識的にもつとめる

平安末から鎌倉にかけての社会はあらゆる面に死が露出し生を脅かした。現実が楽しむことのできない苦界であり、苦に満ちた人生であるとすれば人々は楽しむべき愛すべき世界を他の世界に求めるようになる。当時死後の極楽浄土を求める思想が強く人々の関心を引いたのはその故である。そうした中法然は末法の時代汚濁の世相を凝視し、同時に自らの本性を省みながら、罪悪生死の凡夫が救われる道を求めた。

法然9才の時、父が夜襲をかけられその時負った傷がもとになって亡くなる。

父の遺言:「敵を恨んではならない。仇討ちをすればその恨みは尽きず争いは何代も絶えないであろう。世俗の世界から出家して私の菩提を弔い、自らの解脱を求めよ。」

法然の出家求道の課題:生死をめぐるすさまじい愛憎執着の世界にあって、如何に恨みを越え、憎しみを離れた平安な世界に自他共に救われるかということ

平安時代の中頃から鎌倉時代の初めまでの間天災地変が多く起こった。その結果凶作があり、飢餓と疫病が大流行した。人々は末法到来を感じとった。人々はこのような社会からの救いを政治と仏教に求めた。しかし天皇を中心としてそれをとりまく貴族たちと、貴族勢力の繁栄を祈ることに賢明であった古代仏教とでは現実の政治と宗教を支配することはできなくなっていた。それでも人々はあくまでも仏教に最後の救いを求めることをやめなかった。

法然は43才まで長い精神の葛藤が続く。「出離の志しは深く、様々な教法を信じ、様々な行を修める。仏教多しといっても、つきつめれば戒・定・知慧の三学に至る。しかし悪行煩悩の絆を断たない限り解脱の道はない。」

罪悪凡夫の自覚 己自らを凡夫と自己認識することではなく、何とかしてそれを離脱せんと必死にもがいて、しかも脱し得ぬ悲痛な叫び、救いようのない悲嘆である。生死の危機に直面したとき、世間の人々が如何に弱く醜い存在であるか、世俗的価値、世間の虚飾が如何に役に立たないかを暴き出し、真実とは何か、人生の生きがいは何かを真正面から問いただす。自身の現実、内面の真相が照らし出されてくる。生死の問題を突き詰めていくと必然的に罪業の問題と不可分に関わってくる。法然が世間を見渡したとき、そこに自分と全く同類の人々が救いを得られぬままに苦しんでいるのを見出した。自分の救いと大衆の救いとは同じく与えられねばならないと考えた。本来仏の慈悲は一切衆生の救いにあるはずだと。

法然は43才の時に、唐の善導の「観経疏」の一節により悟りを得る。ただ一心に南無阿弥陀仏と唱える念仏だけで、如何なる罪深い人、如何なる愚かなる者もことごとく極楽往生できる。それこそが阿弥陀仏が選び取った本願である。この阿弥陀仏によって選択された本願の念仏の発見に、長い間求め苦しんでいた大疑問が解けた。末法の世に罪深い自らを救うべき道が既に用意され、慈悲の中に抱かれ、念仏の光明に照らされる自己を発見した。凡夫の救われる道は自力を超絶した絶対者による救いの力を信じる以外にない。絶対他力の仏に今現に摂取され、救われているという直感的な宗教的体験がその後の法然の信仰の根底となる。他の修行を捨てて念仏一行に帰した「専修念仏」の行者の心のありようを安心という。法然は唐の善導大師に倣って三心を挙げ、その核心を「深心」においた。

深心とは深く信じる心

1、自らは罪深い凡夫であり、救われる可能性は全くなく、地獄の業苦を免れることのできない恐ろしい存在であることを信じる

2、凡夫をこそ救うために絶望の底に阿弥陀仏の慈悲の光が注がれ、本願の力が無量に働いている事実を信ぜしめられ、信を頂いたと感じる

阿弥陀仏の光明があまねく全世界を照らし、万民を救うと信じて、一心に念仏を唱える者は必ず生死を越えた真実の仏の世界に往生することができると説いた。

顛倒の見:逆さまの見方

本来は真実(仏)あっての自分(我)であり、真実(法)に随順してこそ真の自己(我)であり得るのに、凡夫は常に自己中心的にものを見、真実の法に背き、自分の我欲煩悩にとらわれている。底に凡夫の我顛倒の過ちがある。

顛倒を脱する方法として法然は真実の仏の働きに全てをゆだねるしかないとする。絶対者の側からの恩寵、他力を強調する。

自己中心から法(絶対者)中心へと心が転じる回心、以前の自己が内部から崩壊し、自分が死んで新しい生に蘇る再生・復活、自分の生ではなく絶対者の生を生きる新生は広く宗教神秘主義にみられる。法然もこのような一種の神秘体験があったに違いない。法然は何か宇宙的真理の生ける実体に無限に抱擁されているという受動感、特殊な心の喜び、高揚感と平安といった実感・直感によって正見に照らされている自分を発見したのである。

信じることも凡夫が起こす信には違いないが、単に信ずるというのではなく、信ぜざるを得ない、信ぜしめずにおれないという仏からこちらに回廻された信、「たわまりたる信心」となる。何人の念仏、如何なる心の状態での念仏も功徳は等しいとする。阿弥陀仏の本願による絶対的救いを人間の相対的見方を持ってうかがうことは全て顛倒の見方である。

◆参考になるサイト

世界史講義録:インドの諸王朝(大乗仏教、ヒンドゥー教)