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キリスト教(Christianity)
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キリスト教の前身のユダヤ教は神からあたえられた戒め、戒律、掟、聖書でいえば十戒、仏教でいえば五戒、そういう戒めを守り、その守った度合いに応じて義とされるということで、人間の自力が強調されている。すなわち人間の徹底的な自力本願の宗教である。それに対し、キリスト教はイエス キリストの十字架というかたちでもって罪の赦しが与えられるわけである。信仰生活はただ一方的に神の愛と恵みと恩寵によって成立する。これがキリスト教、特にプロテスタント神学の立場である。そういう点において、キリスト教は徹底した他力本願の宗教であると言える。

ユダヤ人たちは神から要求された律法の箇条というものを何とか全うしようとした。律法を遵守している人はおうおうにして律法を行っていない人と比較して、優越感にひたるという過ちに陥ることがある。イエス キリストはそのような人たちを痛烈に批判した。律法を遵守するという行為の動機が自分が救われたいとか自分が優越感を感じたいということにあることを痛烈に批判したのである。

キリスト教は人間が救われるため何か条件を立てることの必要のない宗教である。何故かというとキリスト教によると天国にいく条件というのは神側から一方的なプレゼントとしてくれるわけである。人間が何かの条件を立てたのでその見返りとして神から何か恵みをもらえるということではないのである。善行は救われるためにするのではなくて、救われたから、赦されたから、愛されたからというのがその動機である。何か打算的なそれをする事によって何か見返りを期待したり、そうするところに結局は善を指向しながらもエゴイズムがあるんだとイエス キリストは指摘したのである。

イエスキリスト誕生
イエス キリスト誕生前後のお話やイエス キリスト当時のユダヤ教について解説しています。

イエスの足跡1   イエスの足跡2
イエス キリストの足跡を写真と共にたどっています。

○罪に関する新約聖書の教え

マタイ、マルコ、ルカ、使徒行伝:罪はある特定の行為というよりも悪なる諸行為の根元
ヨハネ:罪とは人間を神から引き離して、完全に神から疎外された状態に陥らせる力

○罪に関する代表的なキリスト者の思想

●パウロ

罪の力は人間の肉体を通して働き、情欲を引き起こし、数多くの不法な行為として現れる。罪の究極的な根源は肉体の中にある。

パウロはシリシアの首都タラスでユダヤ教の家庭の子として生まれた。彼は霊的にイエスと出会う前までは律法に厳格なパリサイ人であった。彼の手紙には心と体の葛藤がしばしば描かれている。ロマ書七章はその例である。心では神の律法を喜んでいるが体は罪の律法に仕えている。誰がこの罪の体から私を救ってくれるのか。この葛藤は彼が律法に忠実あろうとすればするほど強く感じていたに違いない。律法を守ることでは心の安息を感じることができず、かえって葛藤・恐れ・不安がつきまとったのであった。その不安を紛らわせるためにキリスト教徒を迫害していたものと考えられる。しかしステパノの神を賛美し、自らを迫害するものを許し殉教していった姿に内心疑問を感じたであろう。そのステパノの殉教が条件となってパウロは霊的にイエスと出会い、それによって今まで感じたことのない安息を感じることができた。

パウロの思想はマルキオン(Marcion)の二元論、グノーシス派(Gnosticism)、シリアの肉悪説(encratism)、エジプトの修道生活主義(monasticism)などへと派生していった。

●アウグスチヌス

対立する二つのグループ、ペラギウス派及びマニ教徒の論争に影響を受ける。

ペラギウス派:神は人間を善なるものとして創造。我々の堕落は個人的な罪の故。人間性を腐敗させる原罪というものはなく、親から相続する罪もない。

マニ教徒:霊魂が敵対的な物質世界に監禁されており、我々の生活は常に肉欲によって堕落させられている。最善の男女とは完全な独身生活を実践する人々である。

アウグスチヌスは人間の罪性と共に創造主の善性の両方を認める一つの神学を作り出そうと試みた。人間の情欲と結婚の聖礼典とをどのように両立させることができるか。アダムとエバがひとたび、神に服従しなかったとき、彼らは自己の肉体を制御することができなくなった。肉欲は罪からきたのである。情欲は悪魔の狡猾さと人間意志の同意の両方から起こった。エバをだました者が、その女の中に情欲の原因を注入した。これが彼女をして情欲の奴隷とならしめた。結婚は肉欲によって汚されている。また性的行為の罪深い側面のために、全ての子供が罪の中にはらまれ、アダムとエバの罪を相続することも事実である。しかし結婚は悪ではない。性的行為を通して生まれてくるが、子供は神の創造のみ業を現すものである。結婚の善が悪なる情欲の存在によって取り除かれたのではない

○サタンの実在

ドイツの神学者ヘルムート・ティーリケ(Helmut Thielicke)に見るサタン理解

ルターと同じくティーリケも歴史を神と神に反対する悪魔が、この世界の支配を目指して闘争している戦場であると説明する。サタンは意志と目的とその影響を感じさせる能力を持った一つの人格、意識を持った力として我々と出会う。我々は自分の中に罪を持っている故に我々を自分のものだと主張する権利を悪魔に与えてしまっている。サタンは匿名で働き、分からないように現れる。悪魔は人間に対して、「罪を犯す方法を私が教えてあげましょう」とは決して言わない。そのように言う代わりに、「何か面白くて、楽しくて、有益なことを見せてあげましょう」と言うのである。サタンは舞台裏で我々を刺激し、誘惑し、奨励することを好む。サタンはどこへでも侵入し、目に見えず、ほとんど抗し難い「時の精神」として、その最も効果的 な仕事をするのである

○人類始祖アダムとエバの堕落の結果

1、ギリシャ正教の教父たちは、アダムとエバがエデンの園から追放された時に彼らに肉体の死という呪いがかけられたことを強調する。キリスト教は神との結合を通して、死を克服することができると宣言する。

2、原罪は最初の夫婦から生殖行為を通して、その後の全ての男女に伝えられている。その結果は人生の真の目的についての人間の無知や情欲の破壊的な力の中に現れている。

3、堕落した人間は罪を犯さずにいることができない存在である。故に救いは神の無条件の恩寵によってなされる。

4、人間は神の創造目的を成就するために、道徳、文化、宗教において漸進的に進化してきたのである。我々は理想的でない社会に生きているが、それを改善することができる。全ての人間は各自が神の子となり地上に神の国を実現するために働くように要求されている。


お薦めの書籍


 

○贖罪論

一、ユダヤ教の贖罪(救済)観

ユダヤ教では神の律法を守ることによって人間は神に受け入れられる。律法を真の意味では全うしきれない人間の根底にある無力さや罪深さについては深い考察は行われていない。ユダヤ教のメシヤ像は個人的救い主というより、政治的解放者である。神と人間との関係は神と私という個人的関係よりも神とイスラエル民族としての関係がより強調される。

二、キリスト教の贖罪(救済)観

キリスト教においては人間が律法によって義とされる道はないとされている。

律法は人間に罪の自覚を促すための鏡のようなもの (ロマ3/20)
「義人はいない、一人もいない」 (ロマ3/10)
全ての人間はアダムの後孫である限り等しく生まれながらの罪人である (ロマ5/12) 
罪人である全人類は皆等しく、罪の代価として”死”を払わなければならない (ロマ6/23)
律法は信仰によって義とされるために私達をキリストに連れていく養育掛 (ガラテヤ3/24)
イエスキリストの死は私達の身代わりの死であった

○罪の許し

キリスト教の贖罪論においてはイエスの十字架は正にその中核であり、その贖罪の論理の全ては十字架を中心として組み立てられている。従って十字架贖罪論さえ認めるならば、一応キリスト教の範疇として認めようというのが今日のキリスト教の一般的姿勢といえる。

○罪の支払う報酬としての「死」

「罪の支払う報酬は死である」 (ロマ6/23)

罪の結果死が到来したのだとすればその罪を我々に代わって背負われたキリストはその清算のための代価として死を当然支払わなければならないというわけである。

三、贖罪論の歴史的変遷

1、初代教会における贖罪論

○イレナエウス Irenaeus 130-200

アダムが本来完成すべきであったことをキリストが根本的にやり直すことをもって贖罪の業がなされる。

○東方教父のオリゲネス 185-254

イエスはご自分を保釈金として提供することによって人間を罪の束縛から解放した
(マルコ10/45、ガラテヤ3/13)

イエスの身の代金はサタンに対して払われたと主張:賠償説(ranson theory)

○ニュッサのグレゴリー Gregory of Nyssa 335-395

サタンのことをキリストの肉という餌につられて飲み込んだところ、キリストの神性という釣り針に引っかかった貪欲な魚に例えた。キリストの勝利説

キリストはサタンの捕虜となっている人間を救い出すためにサタンと闘い、その生涯、死、復活によって、サタン、罪、死など全ての悪の力に対して決定的な勝利を収められた。

2、中世の贖罪論

アンセルムス Anselm 1033-1109

あがないの代価は神に対して払われたとした。賠償金という言葉の代わりに充足(satisfaction)という言葉を用いた。充足説

罪:神の名誉を傷つけたこと、冒涜したこと

充足(償い)か処罰か二者択一的に考えた。人間は自分では罪の償いができない。その理由は賠償として支払えるものをもっていないことである。人間は自分では払いきれないぐらいの大きな負債を負っている。人間が償いができないからといって人間を処罰するのであれば全人類の完全な滅亡となり、それは結果的に神自身の業を滅ぼすことになり、創造における神の目的の完全な挫折を意味することになる。神がその代価を支払うしかない。人間の代わりに神御自身が十字架に架かりその代価を払い、傷ついた神の栄光を回復(充足)された。罪を犯したのは人間なので人間がその償いをすべきであることから償いは神にして、完全な人間、すなわち神人のみがなし得る。キリストは神に対して、その死により余分の功徳を積まれた。その功徳の報いが人類のための救いという形で与えられるようになった。

◆キリスト教系リンク
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エホバの証人 セブンスデー・アドベンチスト教団

東方正教会

 

 

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