家庭に根差した教育

仏教
キリスト教
儒教
世界の宗教の結婚観
家庭に根差した教育
救済観
哲学
ヒンドゥ教
イスラム教
ジャイナ教
ユダヤ教
シャーマニズム
統一神学
共産主義
韓国人観
歴史観

サイトマップ

 

家庭内の関係性に根差した教育
Google
 
Web 検索 サイト内検索

民主・共産の二代勢力の対立の時代が終わり、世界は大きな転換期を迎えようとしている。それは目に見える形での世界的対立の終結である。特に今目に見えない形での混乱がある。それが性の問題である。共産主義は目に見える体制としてはもう明らかに崩れてしまったわけであるが、その唯物的思考は性革命、性解放という形で社会に深く根を張っている。性革命は伝統的家庭倫理を破壊し、社会の混乱をもたらしたことは明かである。しかしここで考えないといけないことは、何故伝統的な家庭倫理が性革命によって崩されてしまったのか。性革命とはなにものなのか。我々は性革命に対してどう対応していかなければならないのかという問題である。

一、儒教の倫理

儒教は家庭を中心とした人間関係というものを強調する。全ての人間の行動は五つの関係の中に見られるという。父子、夫婦、兄弟姉妹、友人間、統治者と民衆間の五つの関係である。その中で最も強調されるのが父子関係、それを拡大した年齢の上下の関係である。儒教の弱点は絶対的な神の概念の欠如である。家庭内の人間関係性の出発点は神の愛にあるべきである。儒教も天という概念はもっているがそれは人格を備えた創造主というものではない。出発点である神の愛を知らずしては家庭内の人間関係性を十分に経験することができない。その結果家庭という枠組みが形式化してしまう可能性を秘めている。形式化し、個人の幸福をもたらすように作用しなくなった家庭の枠組みを批判し、破壊しようとしているのが性革命以後の性解放の思想である。本来は家庭の枠組みの中でこそ、個人も最高に幸せになれるのである。

二、キリスト教の倫理

キリスト教は基本的に家庭というものを大切にしようとする。キリスト教の徳目は愛である。神を愛し、隣人を愛するということである。そして神の愛とはイエス キリストが十字架上で示したアガペーの愛である。しかし家庭をなす上での重要な男女の愛については明確に解かれていない。パウロの書簡を見ても分かるようにどちらかというと男女の愛は程度の低いものとしてみなされる傾向がある。それはひとえにイエス キリストが家庭を築くことができず、本来神の愛を表す聖なる男女の愛の在り方を示すことができなかったことに由来する。イエス キリストは子女の関係性、兄弟姉妹の関係性を説くことはできたがそれ以上の関係性というものを本当の意味で説くことができなかったのである。それ故今まで多くの信仰篤いキリスト教徒たちが独身生活をしてきたのである。また結婚したとしても性の喜びを味わうことに対して罪悪感を感じ、葛藤する信仰者も多くいたのである。性欲というものは人間堕落の結果生じたものであり、罪であると考えられる傾向にあった。アウグスチヌスは次のように考えたのである。「エバをだました者がその女の中に情欲の原因を注入した。これが彼女を情欲の奴隷としたのである。結婚は肉欲によって汚されている。また性の行為の罪深い側面のために全ての子供が罪の中に生まれてくる。しかし子供は神の創造のみ業を現すものであり、結婚自体が善であることには変わりはない。」そのような性に対する否定的な考え方に反発する形で現れてきたのが性革命である。

三、性革命の目的

性欲というものを純潔に対する明確な思想なくして抑えることは非常に難しい。宗教は今まで性の問題に対してはただ押さえつけてきた。今日宗教は人々を指導する力を失ってきている。そういう中で1960年代にアメリカでそれ以前の伝統的道徳に対抗する形で性革命が起こった。そして同時に性教育が行われるようになった。それは個人の自由という美名の下に愛や生命や道徳に対する教育とはかけ離れたものであった。それによると人間の本質は性欲であり、その性欲を押さえつけることは不自然なことである。十代の子供も自らの性行動に対する選択権をもっているというのである。宗教の性に関する規則は性に対する無知故の産物であり、それは再構築されなければならないというのである。そのように主張する人々にとっては伝統的な家庭というものは過去の遺物であり、子供が様々な生活様式があるにもかかわらず限られた生活様式しか考えられないようにしているというのである。そうして次第に個人の意志というものが社会の基本単位としての家庭よりも強調されるようになってきたのである。特に以前は親が子供のために犠牲になるという考え方が普通であったのが、子供に対する影響に関係なく大人が自己の満足を求めることがよしとされるようになってきた。その一番の例が離婚率の増大である。以前ならば仲が悪くなった夫婦も子供の影響を考えて我慢してきたのが、自分たちが気に入らなくなれば子供のことはさておいて分かれてしまうようになったことである。結局性革命は抑圧されていた個人の欲望、特に性に関する欲望を認めさせることにあったのである。

四、性革命の結果とその問題点

性革命によって今まで抑えられてきた個人の欲望、特に性に関する欲望が一気に吹き出すようになった。現代の社会を見ればそのことは明かである。街を歩けばあちこちに性に関する情報があふれている。テレビを見てもセックスシーンがいやがおうにも目に飛び込んでくることが度々である。そのような状態が果たして本当の喜びにつながるものであるのかということを今一度考えてみなければならない。現代はフリーセックスの時代であると言われる。しかしフリーセックスとは名ばかりである。それはただ愛の理想を失った者たちが本当の満足を見いだせずにただセックスを求めて彷徨しているにすぎないのである。性による交わりは男女を親しく結び付けるように働く肯定的な力をもっている反面、それは破壊的な結果をもたらす力ももっているのである。しばしば結婚前のカップルは肉体的関係に満足して、別な面の関係を発展させることをおろそかにしてしまいがちである。彼らの性による喜び、感情的結びつきは精神的結びつきが浅いという現実を覆い隠してしまいがちである。そこで問題なのが今の社会が若者にいかにも性の喜びが最高の幸福であるかのようなじょうほうしか提供していないことである。その結果精神的に希薄な関係しか結んでいない者たちはそのうちに彼らの結びつきに真の喜びを見いだせなくなり、別れるに至るのである。その後そういった者たちはより強い結びつきの刺激を求め複数の相手と性行為をもとうとしがちである。そうしているうちに性の男女を親しく結び付けるという肯定的な力は弱くなっていく。さらに人を信じ、愛する力も失われていくのである。

今まで我々は性というものを生物学的側面、あるいは肉体的側面からのみとらえてきたのである。我々は誰一人として自らの意志で生まれ、自らの意志で性を決定したものはいない。我々は他の存在によってつくられたのである。その存在が神である。我々は性というものを神の観点からとらえないといけない。性というものも神が創造したものであり、神の観点からみたときに我々は性を正しくとらえることができるのである。

お薦めの書籍



五、人間に対する神の創造理想

神は何も必要としない、完全なる至福の状態にあると考えられることが多い。しかし神自身のことは神自らにおいては感じることはできない。そのため神は御自身を鏡に写し出すように対象化させ、分立して、そこからくる刺激によって自身の存在と素晴らしさを感知し、喜びを得るようにされたのである。神は御自身の全てが写し出された対象となるように人間を創造された。神は人間が自らの似姿、あるいはより素晴らしいものとなることを願われたのである。親は自分たちの子供が自分たちよりも優れたものとなることを願うが、それは神から来た性質である。神は創造の時人間がこのように成長して欲しいという明確な構想があった。神は人間に三大祝福とそれを成就したいという欲望を与えられた。ここでは三大祝福と性欲について述べていく。人間の様々な欲望の中で性欲について取り立てて述べるのは性解放が叫ばれる現在、性欲というものを神の創造の観点から見つめ直さなければならないからである。

1、第一祝福:個性完成

完全な人間とは心と体が完全に一体化している存在をいう。ところで心には二つの側面がある。一方は知情意のような霊的、精神的側面を司る心である。他方は肉体を司る心である。前者を精神、後者を本能とする。心と体の統一とは精神と本能の統一とみることできる。

本能は肉体の生存、繁殖のために作用する。それ故に本能の欲望というものは外的な暮らしに関するものである。他方精神は個体が道徳生活に向かうように作用する。それ故に精神の欲望は内的な真善美に関するものである。

人間の価値は真善美の性質にみられる。円満な人というのは真善美の生活をするものである。人間の本然の生き方というのは精神が本能を制御して価値的生活をすることである。衣食住の生活は第二次的なものである。真善美の価値の基盤は無私の愛である。そしてそれは精神の中心的欲望である。精神は様々な心情を経験することによって次第に成長するように創造されたのである。誕生時に肉身はほぼ完全な機能をしているのに対し、精神はほとんど機能していないのである。精神の成長につれて本能を制御できるようになる。

2、第二祝福のための欲望:性欲

性欲は男女間の愛を扱うに当たって最も深刻な問題である。その力は青年期、特に男性にあってはとても強いものとなる。それ故に人間の本性は本来性的であり、性欲は抑制されるべきではないと考える人々がいる。今まで性欲はしばしば悪というように伝統的考え方ではみなされてきた。性教育は性欲の解放、全ての性に関する抑制からの解放は人間の性に関する権利であると教えるのである。性欲は人間の三大欲望の一つとしてみなされている。しかしながら性欲と他の二つ(食欲と眠欲)の間には大きな違いがある。性欲は青年期まで現れないが、後の二つは生まれたときから現れる。後の二つの目的は個体の維持である。しかしながら性欲は個体の維持には必要ないものである。違う目的をもっているのである。そういうわけで性欲を食欲と眠欲と同一に扱うことはできない。性欲は男女がお互いを異性として意識し始めるときから現れ、強くなっていく。性欲は夫婦愛と関係している。私たちが愛というとき、愛にも二種類の側面があると考えられる。一つは精神的愛であり、もう一つは肉体的愛である。男女がどんなに心の中で愛し合ったとしても、離れていれば寂しいものである。男女は精神的愛と肉体的愛の両方によって精神と肉体の両方が完全に一つになり、子供を生むようになっている。性というものは結婚と家庭という普遍的形態のためにつくられたのである。性関係は男女を親密に結びつける力をもっている。しかし性欲は精神によって制御されなければならない。精神が未発達な子供のうちは性的愛は表に現れるべきではない。性的愛は精神が発達する間は内に秘めておくものである。若者は精神が完全に成熟するまで性行為にかられる誘惑から守られなければならない。

3、第二祝福:夫婦完成

神は陽陰の二性の完全なる一体の中に存在している。それ故に人間は神の陽陰の調和に似た男女の調和されたカップルとして存在すべきである。男女はそれぞれ神の二性の片方である。神は人間を自らの陽陰の相を二性にわけて創造した。神は自らの陽陰の完全統一体が人間の夫婦によって実体化されることを願ったのである。

4、第三祝福:万物主管

神は人間創造の前に人間の成長に必要な動植物などの自然界の環境の創造を始めた。神はそれらの創造主としてそれらの主管権をもつ。しかしながら神は肉体をもたないが故にそれらを直接主管し、楽しむことができない。神は自分がもつ全てを完成した夫婦に与えたいと願う。神は彼らが地上の全ての環境の主管権を相続することを願うのである。親は子供が成人したならば自分たちがもつ全てを子供に与えたいと願うものであるが、そのような性質は神の性質に似たのである。人間が神と同じ心情で環境を主管して喜ぶとき神も共に喜ぶことができる。

六、家庭内の関係性

私たちは成長につれて家庭内の関係性の領域を満たすのに必要な愛を経験するようになっている。そして順々により上位の領域に上がっていくのである。その愛の源泉は神である。全ての種類の愛は神の愛の一つの形態である。神は御自身の愛を感じたいのである。神は人間が家庭内の関係性を通過する過程を通して御自身の愛を完全に感じるようになる。

1、子女の関係性

創造の時神は最初に人間が神を親として愛する基準を立てることを願った。それは子女の関係性が子女の愛によって完全に満たされる基準である。その時彼らは次の兄弟姉妹の関係性に至るようになる。愛というものは強制のもとでは成立しない。それ故に神は人間に自由意志を与え、最初に父母の愛で愛するのである。神は人間が神の愛を自らの自由意志によって認識して欲しいのである。子供というものは普通父母の愛を感じるとき、父母を喜ばせたいという情が生じるようになる。それが孝の情である。子女の関係性は神の父母の愛を認識し、神に対する孝の情をもつことから満たされるようになる。儒教が孝を強調し、キリスト教が神を愛することを強調してきたことは子女の関係性を満たすように教えたものであると考えられる。それに対して最近の風潮である大人が子供を顧みず自己の満足を考えることは子女の心情圏の出発点を崩すことになる。

私たちは今日の社会の中に子女の関係性の喪失によって生じたと思われる現象を明らかにみることができる。その喪失は父母の愛からの断絶を意味する。それを突き詰めていくと神の愛からの断絶ということに突き当たる。狼の下で育った子供の話がある。彼らは外見は普通の人間と変わらないが、彼らの情は人間のそれとは大きくかけ離れている。その話から考えると神の愛から離れて育った人間は神が願った本然の情をもっていないといえる。人生の目的や人間の価値と尊厳性は私たちの存在の原因である神との関係によって決定される。今日多くの人々が自らの目的観、価値観を失ってしまっている。彼らはそれらを求めながらもそれらを得られずに苦しんでいるのである。

私たちは神の私たちに対する愛を知って、子女の関係性を復帰しなければならない。まず最初に私たちは宗教性を教える宗教教育を必要とする。その主要な教育目標は神に属しているという経験を与えることである。この段階では宗教性が現れるようにする環境が提供されなければならない。美しい自然に触れることはその一つの方法である。人間は自然を通して神の愛を学ぶようになっている。

2、兄弟姉妹の関係性

兄弟姉妹の関係性は子女の関係性の土台の上に兄弟姉妹の愛によって満たされるようになる。子供は親が自分を愛するのと同様に兄弟姉妹を愛していることを認識することによって兄弟姉妹を愛することを学ぶようになる。それ故に父母の愛が兄弟姉妹の愛の根本である。また子供の親に対する愛は兄弟姉妹の愛の発展に必要不可欠である。私たちは神との縦的な関係を隣人との横的な関係に発展させるようになっている。神の愛に満ちあふれた雰囲気の中で隣人を愛することによって神との関係を深めるようになっている。それがキリスト教の教えの核である。最も密接な兄弟姉妹の関係は血のつながった兄弟姉妹の関係である。他の人々との交際範囲は成長につれて広がるようになる。その時兄弟姉妹の愛の範囲も拡大されるべきである。しかしながら私たちが他人への拡大された兄弟姉妹の愛をもつことは容易ではない。なぜならば兄弟姉妹の関係性の土台となる子女の関係性が失われたからである。

ここで私たちは兄弟姉妹の関係性に関して覚えておくべき重要なことがある。それは私たちは兄弟姉妹の関係性を通過するまで次の夫婦の関係性を捜し求めてはならないということである。男性は神の男性性相に似るようになっており、女性は神の女性性相に似るようになっている。それ故に男性と女性の内的性質及び外的特徴はそれぞれの成長の過程において次第に現れるようになっている。男の子と女の子は思春期に達すると自然にお互いに惹かれ合うようになる。神は愛の理想のためにそのように創造されたのである。彼らの間の兄弟姉妹の愛の結実が夫婦の愛である。男の子の姉妹に対する愛は将来の妻への愛を育成する。一方女の子の兄弟への愛は将来の夫への愛を育成する。もし異性を兄弟姉妹としてみるならば、その異性を自己中心的な欲望の対象として扱うことはできないはずである。

私たちは今日の社会の中に兄弟姉妹の関係性喪失による現象を明らかに見ることができる。隣人に対する兄弟姉妹の関係性の喪失の結果として隣人は単なる他人としか感じられなくなっている。そして他人の悲しみや痛みを自分のこととして感じられなくなっている。世の中では他人を傷つける事件が毎日日常茶飯事のように起こっている。兄弟姉妹の関係性喪失はまた異性に対する誤った扱いや自己中心の心による一時的な恋愛の原因になっている。

3、夫婦の関係性 

夫婦の愛は父母に対する愛、兄弟姉妹に対する愛の土台の上に育つようになっている。男女が神を中心として愛の関係を結ぶ時子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛の3つの愛を完成した愛として経験することができる。またその瞬間は父母の愛の出発点ともなる。男女は神を中心とした夫婦となって初めて神の完全なる似姿となる。男女の結合は神の実体の姿として最も聖なるものとなる。神は男女の生殖器を彼らの体が一身になるように創造された。彼らが愛の関係を結ぶとき彼らの結合の場は神の縦的な愛と人間の横的な愛が完全に調和する場となり、その場から神の愛と生命と血統が始まるようになる。男女の結びつきが家庭内の全ての関係性の定着点となっていく。

私たちは今日の社会に夫婦の愛の喪失による現象を明らかに見ることができる。生殖器を聖なるものとみなす人は誰もいない。むしろ汚れたものいやらしいものとしてみなされてきた。尊い目的のために創造された生殖器が汚れたいやらしい行動によって汚されてしまったのである。それは丁度肥だめの中に投げ捨てられて汚くなった宝石に例えられる。伝統的な考え方や道徳は性に関することを無視する傾向にあった。それは無意識のうちに夫婦の関係性を汚さないようにしてきたのである。一方性革命は神の夫婦の関係性に対する理想を知らないが故にそれを汚すことをなんとも思わなくさせているのである。

結婚適齢期の若者に夫婦の愛の理想と偉大さを教えなければならない。もしそれを理解するならばもはや真の夫婦の愛から離れた性的愛を敢えて求めたりはしなくなるであろう。それから結婚している夫婦にもそのことを教えないといけない。その上で彼らが再び結婚生活を新たなものとして始めるようにしなければならない。今日何の深い考えもなく結婚し、性関係を結ぶ傾向がある。それは深刻な問題である。結婚は単なる男女の出会いではない。それは神の半分の実体である男性ともう半分の実体である女性が神の全体の実体である夫婦となることを意味する。配偶者は神の私たちに対する構想を実現するにおいて必要不可欠な存在である。私たち皆が結婚の意味と配偶者を何者にも代えがたい貴重な存在として見るように教育されないといけない。

4、父母の関係性

神は人間に御自身の創造性を与えたかった。親は子供を育て教育するためには犠牲的で、寛大で、忍耐強く、与えたことを忘れてしまうぐらいでなければならない。特に母親はしばしば死ぬような境地を通過しながら子供を生む。親は子供が素晴らしい人生を送れるように育って欲しいと願う。親は子供が親を越えるようになるとき嬉しいものである。私たちはときどき自分の命を顧みずに子供を救う親の話を耳にする。人間は子供を生み、育てることを通して神の愛を完全に理解し、神の性質を分かち合うようになるのである。そうして人間は父母の関係性を通過し、父母の愛を完成させることができるのである。

しかしながら今日私たちは親の愛を持ち得ていない親の話も耳にする。幼児虐待はまさにその例である。子育てに疲れ果てている母親や、子供にほとんど関心を示さない父親がかなりいるということを聞く。その理由は私たちが父母の関係性の出発点を失っていることにある。私たちの肉体には成熟していれば子供をつくる能力が備わっている。しかしながら私たちは家庭内の関係性を築いて初めて親になれるのである。

七、四大心情圏の拡大

社会は家庭の延長体である。社会の人間関係も家庭内での人間関係の延長である。それ故に私たちは家庭内での関係性を経ながら同時にそれらを家庭を越えたものへと発展させる必要がある。

1、子女の関係性の拡大

子女の愛は上向性の愛である。それは祖父母や先祖に向かっていく。またそれは父母や祖父母のような年齢の他の人々にも向かっていく。今日の家庭では希になってしまった祖父母と孫の深い関係は理想的な三世代家庭においては自然に築かれるのである。そのような家庭で育つ子供は老人と若者の関係を家庭内で学ぶことができる。子女の心情が家庭において一杯になるとき、それは広がり始める。子供たちが先祖を思うとき彼らの心は目に見えない世界や一番の先祖である神と連結されるようになる。それから彼らは自分たちの祖父母や父母を愛する如く世界の年上の人々を愛するようにもなる。

2、兄弟姉妹の関係性の拡大

兄弟姉妹の関係性が家庭において一杯になるとき家庭を越えて拡大し始める。拡大された兄弟姉妹の関係性を持つ人々は同年代の世界の人々を兄弟姉妹として愛するようになる。彼らは他人の優れていることを羨んだりしない。彼らは全ての人をその人の富や地位にかかわらず尊敬するようになる。兄弟姉妹の関係性を世界レベルに拡大することが世界の平和と調和の鍵となる。

3、夫婦の関係性の拡大

私たちはそれぞれ違った環境、人間関係の中で成長する。結婚は単なる人と人の結びつきではなく、それぞれの背景をも結び付けるものである。人が自分の配偶者を愛するとき、その配偶者の背景をも愛さざるを得なくなる。妻は彼女の背景を代表し、夫は彼の背景を代表する。しかしながら私たちは夫婦の愛は夫と妻の間でのみ許されるということを覚えておかなければならない。その点において夫婦の愛は特殊である。私たちは夫婦の愛を違う種の愛によって拡大しなければならない。

4、父母の関係性の拡大

父母の愛は下向性の愛である。それは孫や子孫に向かっていく。また若い人々や自分よりも下位の人々に向かっていく。拡大された父母の心情によって霊界にいる先祖と地上の人々の連結されることを通して神の愛と伝統が子々孫々に受け継がれていくのである。父母の愛が家庭において一杯になるとき家庭を越えて拡大し始める。拡大された父母の関係性をもつ人々は若い人々や下位の人々を孫や子供のように愛するようになる。

結論

私たちは病気を治そうとするときその病原が何であるのか知らなければならない。しばしばこの社会は病んでいると言われる。しかし誰も人類の根本問題を知らないでいるのである。ある人は人間や社会は昔は良かったのに、それがだんだん悪くなっていると言う。それはある面当たっているかも知れない。というのは昔は伝統的道徳、宗教などが病状が現れるのを防いでいたからである。しかし性革命が人間の根源の病の病状をあらわにした。今我々は男女の愛と結婚を神の前に奉献し、家庭内の関係性の定着点を確立しなければならない。