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統一神学 (Unification Theology)
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1、創造原理

1-1、神における両性論

統一原理は神の本質的な性質を理解するための主要な手がかりとして、両性論的事実から出発する。

19世紀シェーカー(Shakers)の教祖アン・リー(Ann Lee)やキリスト教科学の創始者メアリー・ベー カー・エディ(Mary Baker Eddy)が神は男性と女性の両方の性質を持っておられる方であると教えたとき、彼らはしばしば異端者として非難された。

○人間存在に見られる両性論的事実

精神的側面と肉体的側面、男性と女性
人間の両性における関係性は神の本性から来たもの
人間本性の二重的性質は、神の実在と性質に関して何かを示しているはずである。

統一原理によれば、アダムとエバが一対として創造されたということは神の両性論的存在を外的、かつ客観的に顕示するものである。神は両性論的存在としておられ、神はその本性の中に、完全に調和された男女二性の性質を所有しておられる。

○イマニュエル・スウェーデンボルグ(Emannuel Swedenborg, 1688-1772)

1)神の本性は神智と神愛との二元的な本質から構成されている。
    神智は神の本性の男性的な側面、神愛は女性的な側面
  幸福な結婚をしている夫婦の根本的な両性は、神の全体的な本性を最高に表現する
2)神の内であれ、また被造世界のどこであれ、神の形状的側面と性相的側面の両性が存在する。
3)霊的実在の世界とこの地上の世界との間に、基本的な対応関係が存在する。

1-2、両性論からみた神の愛

キリスト教徒の中には神は無限にして、永遠、完全なる存在であるが故に、神はいかなる対象をも必要としないと考える人もいる。彼らによると神は既に絶対的な至福であられる。

統一原理は神が愛であるが故に神は人間を創造されたのであると主張する。主体と対象、愛する者と愛される者の双方がいなければ、愛の交流はなされない。それ故人間は神のパートナーとなるように創造された。愛とは授け受ける過程に依存する。愛は往復の関係でなければならない。神は人間との親密な交流から至高の喜びを感じるために人間を創造された。神は愛を与えることと同じく、愛を受けることを望んでおられる。

1-3、神の内在性

統一原理によるとアダムとエバは神の霊を100%宿した最初の人間になるはずであった。このように完成されたアダムとエバは人類の前に真の父母として人類社会の預言者、祭司長および王としての役割を果たしつつ神に仕えるべきであった。

1-4、心情の神 

統一原理は神の本性の中心は心情であるとして神の人格性を強調

神は孤独や沈痛な悲哀から喜びの極致に至るまで、全ての領域の感情を体験される。神は愛することも 義憤を表すこともできる方である。神は心情の神であるため、被造世界の中で起こる全てのことによって深く影響される方である。

2、堕落論

2-1、罪に関するキリスト教の考え方

○マタイ、マルコ、ルカ、使徒行伝

罪はある特定の行為というよりも、悪なる諸行為の根元

○ヨハネ

罪とは人間を神から引き離して、完全に神から疎外された状態に陥らせる力
われわれは光の中に生きる神の子であるか、さもなければ闇の中に生きる悪魔の子供である。

○パウロ

罪の力は人間の肉体を通して働き、情欲を引き起こし、数多くの不法な行為として現れる。罪の究極的な根源は肉体の中にある。

パウロの思想はマルキオン(Marcion)の二元論、グノーシス派(Gnosticism)、シリアの肉悪説(encratism)、エジプトの修道生活主義(monasticism)などへと派生していった。

○アウグスチヌス

対立する二つのグループ、ペラギウス派及びマニ教徒の論争に影響を受ける。

ペラギウス派 : 神は人間を善なるものとして創造。我々の堕落は個人的な罪の故。人間性を腐敗させる原罪というものはなく、親から相続する罪もない。

マニ教徒 : 霊魂が敵対的な物質世界に監禁されており、我々の生活は常に肉欲によって堕落させられている。最善の男女とは完全な独身生活を実践する人々である。

アウグスチヌスは人間の罪性と共に創造主の善性の両方を認める一つの神学を作り出そうと試みた。

人間の情欲と結婚の聖礼典とをどのように両立させることができるか。

アダムとエバがひとたび、神に服従しなかったとき、彼らは自己の肉体を制御することができなくなった。肉欲は罪からきたのである。情欲は悪魔の狡猾さと人間意志の同意の両方から起こった。エバをだました者が、その女の中に情欲の原因を注入した。これが彼女をして情欲の奴隷とならしめた。

結婚は肉欲によって汚されている。また性的行為の罪深い側面のために、全ての子供が罪の中にはらまれ、アダムとエバの罪を相続することも事実である。しかし結婚は悪ではない。性的行為を通して生まれてくるが、子供は神の創造のみ業を現すものである。結婚の善が悪なる情欲の存在によって取り除かれたのではない。

2-2、サタンの実在

ドイツの神学者ヘルムート・ティーリケ(Helmut Thielicke)に見るサタン理解

ルターと同じくティーリケも歴史を神と神に反対する悪魔が、この世界の支配を目指して闘争している戦場であると説明する。

サタンは意志と目的とその影響を感じさせる能力を持った一つの人格、意識を持った力として我々と出会う。我々は自分の中に罪を持っている故に我々を自分のものだと主張する権利を悪魔に与えてしまっている。

サタンは匿名で働き、分からないように現れる。悪魔は人間に対して、「罪を犯す方法を私が教えてあげましょう」とは決して言わない。そのように言う代わりに、「何か面白くて、楽しくて、有益なことを見せてあげましょう」と言うのである。サタンは舞台裏で我々を刺激し、誘惑し、奨励することを好む。サタンはどこへでも侵入し、目に見えず、ほとんど抗し難い「時の精神」として、その最も効果的な仕事をするのである。

2-3、統一神学の堕落論

統一原理はオリゲネス(Origen)やその後のキリスト教プラトン学派の人々とは異なって、人間の純心な魂が物質世界に巻き込まれたり、虜となったりした時に人間が堕落したとは考えない。また罪は人間の感性的本質と精神的向上心との間の自然的な軋轢から起こるようになったというシュライエルマッハーやそれに続く人たちとも見解を異にする。グノーシス派やマルキオン、その他の二元論者たちが主張したように、単に性欲のために我々が罪人であるというのでもない。

○霊的堕落

ルーシェルが神の僕となるべく創造されたのに対し、人間は神の愛する子供となるように創造された。またアダムとエバは肉体を所有するという有利な点をもって創造された。このようなことをルーシェルは嫉妬するようになった。一方でエバに対して情愛を深めるようになった。その欲望に対しては、それに抗するよりもむしろそのような行為が神の意志と正反対であることを知っていたにもかかわらず、敢えてエバを誘惑する冒険を行った。エバはその誘惑に応じたために堕落が生じた。

○肉的堕落

アダムとエバは神を中心とする生活の基準に達したときに夫婦となることを願われていた。彼らの全存在が神に対する愛を中心としたものになるまではふさわしい状態で一つになることはできなかったのである。しかし彼らは成熟する前に、神の祝福を受けることなく結合してしまい神の意志に反した。愛や性、それ自体は悪ではないが誤って用いられた時、それらは罪の根源となるのである。

2-4、堕落の結果

○今日までの見解

1)ギリシャ正教の教父たちは、アダムとエバがエデンの園から追放された時に彼らに肉体の死という呪いがかけられたことを強調する。キリスト教は神との結合を通して、朽ちる者がないものが朽ちないものを身につけ、死を克服することができると宣言する。

2)現在は最初の夫婦から生殖行為を通して、その後の全ての男女に伝えられている。その結果は人生の真の目的についての人間の無知や情欲の破壊的な力の中に現れている。

3)堕落した人間は罪を犯さずにいることができない存在である。故に救いは神の無条件の恩寵によってなされる。

4)人間は神の創造目的を成就するために、道徳、文化、宗教において漸進的に進化してきたのである。我々は理想的でない社会に生きているが、それを改善することができる。全ての人間は各自が神の子となり地上に神の国を実現するために働くように要求されている。

○統一原理の見解

重要な問題は肉体の死よりも、霊魂の未来の状態がどのようになるかということである。サタンは最初の男女を堕落せしめて後、その勢力を拡張し、人類に対する掌握をより強めようとして働いてきた。人間を神の前にざん訴し、神と人間とを引き離そうとする。またいつも人間を誘惑して、自分の支配化におこうとしている。現実社会の問題はサタンが人類を掌握していることから生じている。

人間堕落の最悪の結果はそれが神に与えた影響であった。堕落の結果、神は被造世界に対する主権を事実上奪われてしまった。神は人間の心に対する支配圏をも失ってしまった。人間堕落により神の心にのしかかっている耐え難い重荷を取り除くために来られるのがメシヤである。メシヤの使命は苦しんでいる人類だけでなく、苦悩されている神をも解放することである。

2-5、創世記第三章における性的解釈

統一原理では創世記三章の記述が深い意味を提供しているとする。それは人間の堕落が愛を間違って用いたことに関係しているということである。愛の誤用とは偽りの愛による性的行為を行ったということである。偽りの愛が人類の歴史の初めにあり、それ以来偽りの愛が人間生活を誤った方向へと導く基本的な動機を作り出すようになったというのである。

聖書批評学者たちは創世記三章はカナン人たちの「多産信仰」に対する反駁としての意味を持つと考える。カナン人たちは性行為を行うことが神を崇拝する一つの方法であると考え、その行為が宇宙の多産、肥沃、豊饒をもたらすものと信じていた。

この物語にみられる性的な要素

禁断の実とは媚薬の性質を持ったものを指すこともありえた
いちじくの葉は性的な宗教の乱行と関連したものであった
アダムとエバは、肉体的恥ずかしさに打ち負かされて、下部を覆った
罪に対する罰は妊娠と出産の苦痛に関連している
生殖の神、蛇がそこにいた

○「善悪を知る」について

現代神学者の見解

道徳的善悪 : 「善悪を知る」ということは正しいことと間違ったことを知るという意味であるという見解

堕落とは人間が何も知らない無知の状態から善悪をわきまえる状態になること。フロイト派の心理学者やキリスト教に批判的な心理学者がこのような見解をとる。

問題点 アダムとエバは堕落以前に既に善悪をわきまえる存在として扱われている。神はアダムとエバを自分で責任を持つことのできる存在として戒めを与えている。

○知恵を得ること

へびがエバに与えた約束 神のように賢明になる。

創3/22 主なる神は言われた。「見よ、人は我々の一人のようになり、善悪を知る者となった。…」人間が堕落行為をすることによって何らかの知恵を得たことは確かである。

○性的不倫の行為

知るという動詞はヘブライ語で「ヤダー(yada)」 聖書では度々性交を意味する言葉
創4/1「人はその妻エバを知った。」 創19/5「われわれは彼を知るであろう。」

○性的不倫の行為と解釈する根拠

アダムとエバは堕落する前は裸であったが恥ずかしいとは思わなかった。しかし堕落後裸を恥ずかしく思って、いちじくの葉で覆った(創2/25、創3/7)
堕落が恥ずかしいと思うことの出発点になっている
性的関係を持ったことが何か恥ずかしいことをしたように描写されている
産みの苦しみ 私はあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む 創3/16
女性が性において呪われるような立場におかれるようになったことを示す

○創世記三章の性的問題

創2/23,24 人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである
神は結婚を聖なるもの、善として認めている

多産信仰 
カナン人が行っていたもの。多産の女神であるアシラとその相手であるバアル神を崇拝する信仰のこと。バアル神とアシラ女神の性交によって肥沃、豊饒、多産をもたらす力が与えられる。多産の活動は神殿における売春という一つの儀式によっていっそう刺激されるものと信じられていた。

ホセア4/12-14 当時の多産信仰のことについて語っている。「木」という言葉がたくさん出てくる。これはエデンの園の「木」と関連がある。

申23/17,18 神殿娼婦、男娼たちは売春を行ってお金を稼ぐことにより、神々への献身ぶりを示した。

多産信仰の儀式は「木」に関連している。多産信仰の儀式である性行為はアシラと呼ばれる木の下で行われた。エジプトで出土した飾り板に両手に蛇を持っているアシラ女神が描かれているものがある。蛇とアシラ女神とは深い関連があることがわかる。

○蛇の正体

創世記三章における蛇はアシラ女神や多産信仰と深い関連を持っている。

ウガリット文書 カナン人の町ウガリットという所から発見された重要な資料

蛇は噛み付くので何か恐るべきものを表している。
蛇は病気を癒し多産をもたらす。
死の木と呼ばれる木が死をもたらす蛇と関連しているが、死の蛇は儀式を行うことによって命を与える蛇へと変えられる。

創世記三章では蛇はエバに対し取って食べれば賢くなるという約束を与えるが、それは偽りの約束であった。結果的にはそれは人間に対して呪いや不幸をもたらす原因となった。

創世記三章の背景には多産信仰の聖なる売春の儀式が想定されているが、それによって決して祝福を受けるのではなく、呪いを受けるということを示している。

蛇は多産信仰においては神との仲保者であるが、創世記では蛇は呪われ、人間の敵となっている。

創世記三章はカナン人が命の源と考えていたものが実際は死の源となったことを明らかにしている。

○賢くなるについて

蛇の与えた知恵 : 神のようになる 

男女が神秘的に一つとなることを通して新しいものを生み出す力を持つようになることを意味している。
蛇が与えた神のようになるという知恵は偽りの知恵であり、神の知恵とは逆のものだった。

箴言における知恵
箴1/7 「主を恐れることは知識のはじめである。」
蛇は神に背くことによって知識を得ることができるという知恵をエバに授けた。

イスラエルの人々は多産信仰によってバアル神やアシラ神を崇める人々はいかなる者であっても罪を犯していると認識していた。預言者のイザヤやエレミヤはいつも肉的性欲を淫行として糾弾していた。聖書は罪の始まりは淫行にあったことをイスラエルの人々に示そうとしている。さらにこのことはイスラエルの人々が直面していた時代だけの問題ではなくして、人間の性質の本質にかかわる問題であると聖書学者は見ていた。したがって創世記の記者は、人間堕落の物語を創世記の冒頭に置いた。

○神の祝福としての家庭

統一原理によれば、本来人間は神を中心として一つになり、結婚すべきであった。人間始祖アダムとエバは成長期間を全うし、神が彼らに与えた戒めに最後まで忠実でなければならなかった。そうして愛の中心に神がおかれるようにしなければならなかった。しかし堕落によって人間の愛の基盤そのものが、神に対する反逆行為になってしまった。人間の男と女の関係や家庭は初めから霊的に堕落し、腐敗した愛で出発した。

●キリスト教の愛の限界

人間の男女愛は本来、神の愛を表す聖なるものであるべきであった。しかし事実は堕落し、自己中心で、劣った軽蔑すべきものとなってしまった。その結果神の愛はただイエスによって現されたアガペーの愛のみが真の愛と呼ばれるものとなってしまった。

統一原理では姦淫によって人間の全ての愛と生活が腐敗、堕落させられたので、この問題は最も深刻な問題であると説く。多産信仰は正に最も基本的な原型となる罪であった。現代においてもそれに類似した行為がなされているのを見ることができる。あらゆる種類の性が人間に充実感を与える何か素晴らしいもののように賛美されている。

堕落によって人類の最初の夫婦アダムとエバは堕落性本性という性質を持つようになった。これは人間の心を真の価値から偽りの価値へと離脱させ、誤って導く知恵を意味している。

○従来の神学の堕落論の問題点

天使長も人間も共に堕落前は完成していた。

完成していた被造物が堕落したとするならば堕落しない世界は永久に作れない。統一原理ではこの世界は神が創造の業を終えられた瞬間はまだ完成していなかったとみる。人間が自己の責任分担を果たして自己完成するように神はなされた。神が直接に干渉されない間接主管圏が設けられた。間接主管圏があったからこそ悪が生じる可能性があったのである。

禁断の実が設けられた目的は人間の服従心を試みるためであった。

人間の心は堕落以前は本心のみであり、その本心は善の主体である神によって作られたものであり、常に神に向かうように作られている。従って本然の人間に対して死を伴うような方法で試みる必要は全くなかった。

自由意志を与えられていたために堕落した。

人間が自由意志によって堕落したのであるとするならば、本然の世界が復帰された後も自由意志は依然として存在するので、再び堕落することも起こり得ることになる。

「自由がエバをして、天使を相手とし、堕落線まで引っ張っていったことは事実であるが、堕落線を越えさせたのはどこまでも自由ではなくして、非原理的な愛であったのである。」 (講論 127)

人間の心は知情意の三機能をもっている。人間が何かをしようとする時、情知意の順序で作用する。従って心とは具体的には意志として現れてくる。結局自由意志とは心の発露にほかならない。本心は常に善を指向するので本心の自由意志も善のみを指向するのである。従って本心の自由意志によって堕落することはありえない。 

天使がまず単独で堕落してサタンとなり、次にそのサタンに惑わされて人間の堕落が起こった。

個体にある本心の自由意志の力よりも強いものが授受作用の力である。授受作用の力が心のレベルで生じたものが愛の力である。従って人間の心は愛の力のもとでは本人の思うようにならない事態が生じる可能性があった。統一原理は天使と人間との間の非原理的愛の力が人間をして堕落線を越えさせたものであるとみる。従って天使と人間の堕落は同時に起こったのである。

●愛と自由

神が本心の自由の力よりも愛の力をより大きなものとされたのは決して堕落しない世界を実現するためであった。統一原理は人間が自由を持ちながらもなおかつ絶対的に堕落しない世界は作られた被造物の一つ一つが宇宙で最大の力である神の愛の力の絆で互いに結ばれることによって実現できると考えている。創造本然の原理的愛の力によって、神と人間、人間と人間が互いに結ばれれば、その関係を断ち切る力はもはや宇宙のどこにも存在しない。従って堕落は起こり得ないことになる。

自由の原理的意義

一般に自由という言葉は「liberty」と「freedom」の2つがあるとされている。前者は束縛からの自由を意味し、後者は目的に向かっての主体性、自発性を意味する。後者の自由は何でもかんでもやっていいというのではなく、なすべき目的は既に決まっており、それに向かって強制的にではなく、自ら進んで行う姿勢を示している。従来の教会が「アダムには堕落する自由があった」という場合の自由は前者の自由の意味合いが強い。しかし自由意志の自由はあくまでも心の自由であり、それは本心の願いを思うようになせることである。つまり自由とは思うように善を行うことができる心の状態である。これは後者の自由である。そもそも自由とは人間がそれをもって自らの責任分担を全うするために賦与されたのである。後者の自由は自由行動に関係した言葉であり、あくまでも自由意志に基づく次の要素である。

3、贖罪論

3-1、ユダヤ教の贖罪(救済)観

ユダヤ教では神の律法を守ることによって人間は神に受け入れられる

 律法−道徳律 倫理・道徳に関する普遍的なもの
   \礼典律 イスラエル民族にだけ与えられた特別な戒め

ユダヤ教では律法を真の意味では全うしきれない人間の根底にある無力さや罪深さについては深い考察は行われていない。ユダヤ教のメシヤ像は個人的救い主というより、政治的解放者である。神と人間との関係は神と私という個人的関係よりも神とイスラエル民族としての関係がより強調されている。

3-2、キリスト教の贖罪(救済)観

キリスト教においては人間が律法によって義とされる道はないとされている。

律法の本質を神と人に対する愛とする (ロマ13/9,10)人間の精神的動機、心の在り方を問う 
律法は人間に罪の自覚を促すための鏡のようなもの (ロマ3/20)
「義人はいない、一人もいない」 (ロマ3/10)
全ての人間はアダムの後孫である限り等しく生まれながらの罪人である (ロマ5/12) 
罪人である全人類は皆等しく、罪の代価として”死”を払わなければならない (ロマ6/23)
律法は信仰によって義とされるために私達をキリストに連れていく養育掛となった (ガラテヤ3/24) イエスキリストの死は私達の身代わりの死であった。

3-3、贖罪論の歴史的変遷

1)初代教会における贖罪論

●イレナエウス(Irenaeus) 130-200

アダムが本来完成すべきであったことをキリストが根本的にやり直すことをもって贖罪の業がなされる。東方教父のオリゲネス、アタナシウス、西方教父のアウグスティヌス、グレゴリウスI世

統一原理の蕩減復帰原理と類似

●オリゲネス 185-254

イエスはご自分を保釈金として提供することによって人間を罪の束縛から解放した。(マルコ10/45、ガラテヤ3/13)

イエスの身の代金はサタンに対して払われたと主張 : 賠償説(ranson theory)

サタンのざん訴条件とかメシヤの立てる蕩減条件によるサタンの自然屈服という概念を示唆している。

●ニュッサのグレゴリー(Gregory of Nyssa) 335-395

サタンのことをキリストの肉という餌につられて飲み込んだところ、キリストの神性という釣り針に引っかかった貪欲な魚に例えた。 : キリストの勝利説

キリストはサタンの捕虜となっている人間を救い出すためにサタンと闘い、その生涯、死、復活によって、サタン、罪、死など全ての悪の力に対して決定的な勝利を収められた。

2)中世の贖罪論

●アンセルムス(Anselm) 1033-1109

あがないの代価は神に対して払われたとした賠償金という言葉の代わりに充足(satisfaction)という言葉を用いた。: 充足説

罪:神の名誉を傷つけたこと、冒涜したこと

充足(償い)か処罰か二者択一的に考えた。人間は自分では罪の償いができない。

理由 : 賠償として支払えるものをもっていない。人間は自分では払いきれないぐらいの大きな負債を負っている。

人間が償いができないからといって人間を処罰するのであれば全人類の完全な滅亡となり、それは結果的に神自身の業を滅ぼすことになり、創造における神の目的の完全な挫折を意味することになる。

神がその代価を支払うしかない。人間の代わりに神御自身が十字架に架かりその代価を払い、傷ついた神の栄光を回復(充足)された。

罪を犯したのは人間なので人間がその償いをすべきである。したがって償いは神にして、完全な人間、すなわち神人のみがなし得る。

キリストは神に対して、その死により余分の功徳を積まれた。その功徳の報いが人類のための救いという形で与えられるようになった。

神が人間の救済に失敗すれば、本来の神の創造目的が挫折することになる故、救済摂理は必ず行われなければならないと見た点は普遍的救済論につながる。

3-4、罪の許し

キリスト教の贖罪論においてはイエスの十字架は正にその中核であり、その贖罪の論理の全ては十字架を中心として組み立てられている。従って十字架贖罪論さえ認めるならば、一応キリスト教の範疇として認めようというのが今日のキリスト教の一般的姿勢といえる。 

●罪の支払う報酬としての「死」    「罪の支払う報酬は死である」 (ロマ6/23)

今日までの多くの保守的、福音主義的クリスチャンはこの聖句の死という意味を霊的死と共に生理的、肉的死をも含めて考えてきた。罪の結果肉的死が到来したのだとすればその罪を我々に代わって背負われたキリストはその清算のための代価として肉的死を当然支払わなければならないというわけである。

3-5、統一原理の贖罪観

キリストはほふられた小羊としての犠牲の道を歩み、それを通して贖罪の業を全うする。人類は神の摂理的祭壇にほふられたキリストによるあがないの業によって贖罪される。キリストの生涯そのものが贖罪性を持つという考え方は今日までのキリスト教教理の中でもはっきりと見ることができる。

●血によるあがないの根拠

血を流すことなしには罪の許しはあり得ない(ヘブル9/22)
血は命である故に、あがなうことができる(レビ17/11) 

旧約時代の動物犠牲による贖罪の方法に原型

旧約における犠牲から流された血は血統的堕落を清算するための条件としての死亡の血を流して聖別する行為であり、供え物は万物を復帰するためと、人間を復帰する象徴的蕩減条件としての象徴献祭。

一方、イエスの十字架はユダヤ民族がイエスを神のみ意にかなうような実体献祭として捧げることに失敗した結果に対する償いとしての蕩減条件

旧約の供儀とイエスの十字架とではかなり異なった要素がありこれら二つのものを同レベルで扱うことはできない。

●イエス自体が罪の許しの権威を持つ

子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は許されたのだ(マタイ9/2)
人の子は地上で罪を許す権威を持っている(マタイ9/6)
生きておられるイエス御自身が罪の許しの権能を持っておられた

イエスは贖罪の生涯を通して人類を罪から解放し、神の国を地上に築かれるべきであった。しかしユダヤ人の不信仰によりその道がふさがれ、やむを得ず十字架の死という非常手段を持って贖罪の道を開かれたのである。