Triangle Family教会の説教日本語訳 ー 「怒りの感情」2023年12月17日
原文説教
何かシンプルなもの、短いもの、心温まるものを考えていました。イエス様の生涯を見ると、イエス様は貧しい人々にとても親切でした。イエス様がテーブルをひっくり返すことについて話したいと思いました。それは私の心の中にありました。
特に政治的には、保守政党を憎んだり、リベラル党を憎んだり、活動家を憎んだり、非活動家を憎んだりと、見当違いの怒りが多いように感じますが、今日は怒りについて話したいと思います。イエス様について考えるとき、イエス様はとても平和的で平静な頭脳を持っていると思われますが、イエス様が怒ってテーブルをひっくり返し、「おい、これは祈りのための神殿であって、金儲けのための神殿ではないぞ。」と言ったこともありました。イエス様を本当に偉大な人物にしたのは何かと考えると、イエス様は自分の痛みと向き合うことを厭わなかったと思います。そのおかげで、彼は人々に殺されそうになってもなお、心を開いて人々に接することができました。
私はキャリアを変え、多くの人々と話し、感情に関するコーチングを行ってきました。その多くは怒りです。人は怒りとうまく付き合っていません。怒りは痛みを伴う感情です。怒りは消化されるべきものです。心を開いて、好奇心を持って、平和な気持ちで自分の痛みと向き合い、感じようとする人には、とても良いことがたくさんあります。しかし、多くの人は痛みを恐れています。私たちの誰もが、古傷を恐れています。痛みを恐れ、痛みと向き合わないでいると、実際には逃げたり、凍りついたりしてしまいます。それが長く続くと、心を開くどころか、無感覚な状態になってしまいます。
多くの二世の人たちと話をする中で、無感覚はほとんど伝染病のようなものだからです。私たちはパンデミックを経験したばかりです。しかし、無感覚は実際にはさらに深刻な流行病なのです。私はこのことについてずっと考えてきたし、実際、自分自身の無感覚と向き合わなければならなりませんでした。無感覚について考えるとき、私は皮肉と諦観について考えます。この2つは互いに結婚し、無感覚という名の赤ん坊を産みます。その問題は、好奇心を殺してしまうことです。だからこそ、私は今日、この問題について語ろうと強く思います。私は自分自身の感情に関して多くの仕事とトレーニングをしてきて、自分の感情の中に多くの知恵があることを発見しました。心と身体の統一を聞いて育った私たちは、この概念について考えています。私の心は私の体を指示し、私の行動は良い真理に沿った私の心に従うべきだという誤解があると思います。でも、心と身体の統一が意味するのは、実はそういうことではないと思います。それは気力で乗り越えることでしょう。心と身体の統一は夫と妻、男と女が一体化するようなものだと思います。男性には男性にしかないものがあります。女性もそうだです。二人が一緒になって家庭を築く役割を果たします。それと同じように、私たちの身体はとても重要なものをもたらしてくれます。それは感情と大きく関係しています。
感情、怒り、悲しみを癒す必要があります。子供たちを見てみると、子供たちは生まれつきとても感情的です。体が即座に反応します。とても正直なんです。大人は感情を感じなくします。痛みを感じようとしなくします。私たちはそれを子供たちにまで押し付けてしまいます。子供が悲しんでいるのを見ると、本当に穏やかでなくなります。でも、悲しみは自然で美しい感情だし、怒りもそうです。今日は悲しみについて話すつもりはありません。イエス様がテーブルをひっくり返すときの怒りについて話そうと思います。
4年前に男性修練会に参加し、自分の怒りに取り組んだことを話したいと思います。正直なところ、私は自分のことを怒っている人間だとは思っていなかったので、本当に不思議でした。怒っている人間だと思ったことは一度もありません。多くの人に腹を立てることもありません。この男性修練会で出てきたのが、たくさんの怒りだったのは驚きでした。自分が何に対して怒っているのかさえ分かりませんでした。ただ、疲れるほど怒りが出てきました。本当に疲れて声が出なくなった後、私は軽さを感じるようになりまし。ずっとそこにあった怒りを吐き出すことができました。それ以来、怒りについて、そして自分の怒りとどう関わっているのかについて、いつも興味が湧いてくるようになりました。
例を挙げましょう。私は夫婦の時間の計画を立てていました。そのとき、私は歌を用意していました。その歌は、お腹の赤ちゃんに一緒に歌って聞かせるためのものでした。とてもかわいいアイデアでした。私は歌を弾くためにギターを習っていました。音符を覚えていました。私は妻にあと5分で夫婦の時間が始まることを告げました。妻は自分の仕事をしながらパソコンを打っていました。20分は経ったと思います。私はギターをもう少し練習していました。45分経ったと思います。彼女は仕事を終えてやって来ました。私はかなり怒っていました。仕事でないがしろにされた感じでした。ちょっと偽善的な気がしました。彼女は、私が仕事で彼女をないがしろにすると、私に腹を立てます。彼女は座ってこう言いました。「あなた、これすごくかわいけど、今歌ってほしいなら、私は今歌う気分じゃないのよ。」私はこのギターの歌を1時間かけて覚えました。結局のところ、私の怒りは妻に向けられていたとしても、それは妻に対する怒りではないことを認識しなければなりませんでした。妻への愛に基づいたこのひらめいたアイデアに注力したのに、それがすべて無駄になってしまったことに腹が立ったのです。失望したのです。私は妻に、この夫婦の時間を計画したのに実現しなかったことに失望したと言いました。皮肉なことに、夫婦の時間の目的は私たちの関係を発展させ、愛を深めることであって、妻への愛を冷ますことではありません。妻に腹を立てると、私は冷たくなり、心を閉ざし、話したくなくなります。それは夫婦の時間の目的ではないので、とても皮肉なことです。最終的には乗り越えることができました。歌いたくないんだね。それでいいんだ。歌う必要はないんだ。結局、私たちは素敵な夫婦の時間を過ごしました。お菓子作りの番組を見たのです。
私は愛に戻るために怒りを乗り越えなければなりませんでした。怒りは無意識であるときにこそ危険で、暴力的になり、精神的な殺戮のようになります。これは乗っ取られた怒りです。根源的な怒りではありません。根源的な怒りは重要な感情です。私たちをより良く変化させる原動力となる中核的な感情なのです。それは私たちを成長させ、動かす原動力となります。怒りの鍵は、何が正しい怒りなのかを知ることです。そこで心と身体の統一の出番となります。この怒りは悪いものだと言って片付けてしまうのは、私たちの身体と身体がもたらしてくれるものを否定することになるのです。私の身体が怒りを感じているのだから、私の心が私の身体と協力して、心と身体の両方が同意できる真実を導き出すのです。それが正しい怒りを見つけることです。
義にかなった怒りの例をいくつか挙げます。私自身の生活の中で気づいたことがあります。まず、私の娘から。私たちが娘を支配すると、娘は怒ります。それはたいてい、私が娘を抱き上げて「もうやめて」と言ったときか、チャイルドシートに乗せたときです。娘は本当に怒って暴れだします。支配されることは自由意志の侵害だから、怒るのは理にかなっています。怒る意味があります。私はただ彼女が怒っていることを受け入れます。
私は父を愛しているし、慕っているけれど、長い間父に腹を立てていました。私は父と良い関係を築きたかったから怒っていました。私は十分な愛情を得られていないと感じていたから、怒って父を責めました。今は父を愛しています。心配しないで下さい。私たちはいい関係を築いています。私は自分の怒りを否定しようとしていただけです。でも、もっと深く見れば、愛がないことは怒りに値します。結局のところ、怒りは私たちの庇護者であり、擁護者なのだと思います。私たちが非難されたとき、なぜ怒るのか納得がいきます。バカにされたときと同じように、怒りは当然湧いてきます。バカにされることに怒るのは、相手が私のことを気にかけていないように感じられるからで、それは怒るに値します。私たちの精神は自然に所属を求める。自分の居場所はここにはない、と居場所を断ち切られれば、怒りが沸き起こるのも納得がいきます。最後に、怒りを否定するのではなく、怒りに心を向けることを勧めます。もしあなたが人に腹を立てているとしたら、その怒りは乗っ取られたものだと言えるでしょう。私が妻に腹を立てていたとき、私の怒りは乗っ取られていました。怒りの核心は、善、愛、美を軽んじる悪に向けられるものです。怒る価値があるのは、本当にそれだけなのです。テーブルをひっくり返してくれたイエス様に感謝します。最後に祈りを捧げましょう。
神よ、私たちがあなたの子どもとして兄弟姉妹として集う機会を与えてくださったことを感謝します。私たち一人ひとりに対するあなたの心、あなたの知恵、あなたの恵みを見ることができるように成長し、あなたが私たち全員に望んでおられる大きな愛、つながり、霊的活力を経験することができるように成熟できるように祈ります。あなたの英知を祈ります。あなたの導きを祈ります。私たちが心を開き、あなたに心を向けることができるよう、あなたが私たちとともにいてくださるよう祈ります。御名によって報告します。
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