2023年12月19日火曜日

イエス キリスト当時のユダヤ教と洗礼ヨハネ

イエス キリスト当時のユダヤ教

今でこそメシヤとして世界中のキリスト教徒によって信奉されているイエス キリストですが、その当時はどうであったのでしょうか。聖書の記述によると、ユダヤ教の指導層からは煙たがられる存在であったようです。特に次に挙げるパリサイ派から迫害を受けたようです。

イエスの時代、ユダヤ教はいくつかのグループに分かれていました。主なものはサドカイ派、パリサイ派、エッセネ派の3つでした。

1)サドカイ派

モーセを始めとする過去の預言者たちの残した教典のみを重視しました。学問として教えを捕らえていた学者たちが主でした。

2)パリサイ派

タルムードを重視し、ラビの言葉を重視しました。タルムードはユダヤ人のバビロン捕囚と同時代に生まれたユダヤ教典のうちの一つであり、口伝律法の集成です。タルムードは他民族によって迫害され続けた反動でユダヤ人選民思想的な側面が強調されています。

イエスの時代、ユダヤの地はローマの支配下にありました。ローマ人総督の下、王と議会が存在しました。この議会を「サンヘドリン」と呼びました。王もこの会議の決定には逆らえませんでした。パリサイ派はサンヘドリンに大きな影響力を持っていました。

3)エッセネ派

律法を特殊共同体的環境の中で遵守しようとしたグループです。その中核部分がクムランに隠遁したクムラン教団であったようです。クムラン教団とは紀元前二世紀中頃成立した、祭司的要素を基とした特殊共同体で、死海のほとりのクムランの隠遁所で律法を徹底的に守りながら、近い終末に備えようとしていたとされます。エッセネ派の倫理規範は共同体倫理と愛に基づいていました。イエス キリストのようにしばしば譬えや比喩を用いて語ったようです。星を読み、未来を予測し、治療を行ったともされます。また紀元前250年にインド皇帝アショカ王が派遣した宣教師によって伝えられた仏教の思想を採用したと言われています。イエス キリストの親戚洗礼ヨハネはエッセネ派に属していたようです。

ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。ヨハネはらくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。(マルコ1/5-6)

このような川で洗礼を授けたり、修道生活を送るというのはインドの影響を受けていた証拠と考えられます。

洗礼ヨハネ

新約聖書によると、イエス キリストは本格的な活動を始める前に洗礼ヨハネを訪ね、ヨルダン川で洗礼を受けたとあります。洗礼ヨハネは、かねてより自分は水で洗礼を授けるが、自分のあとから来る人は、火と聖霊とによって洗礼を授ける方であり、自分は彼の靴を脱がせてあげる値打ちもないと証言していました。

わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。(マタイ3:11)

そしてイエス キリストが訪ねて来たとき、神の予言どおり、御霊がイエス キリストに下ってとどまるのを見て、神の子であるとあかしをした。(ヨハネ1:33-34)

洗礼ヨハネは、当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれました。

ザカリヤが聖所で香を焚いていたとき、その妻が男の子を懐胎するだろうという天使の言葉を信じなかったために唖となったが、ヨハネが出生するや否や口がきけるようになった。この奇跡によって、ユダヤの山野の隅々に至るまで人々を非常に驚かせた。(ルカ1:8-66)

また荒野での修道生活と民衆に罪の悔い改めをさせ、洗礼を授けるなどの活動により、救世主を待ち望む民衆は洗礼ヨハネがメシヤではないかと考えたほどでした。(ルカ3/15)このように洗礼ヨハネは当時の全ユダヤ人から一目置かれる存在でした。

洗礼ヨハネの誕生前にザカリヤに現れた天使は洗礼ヨハネの将来を以下のように予言していました。

エリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう。(ルカ1/17)

エリヤというのはソロモン王朝の後、王国が南北に分裂した時代の代表的な預言者で、メシヤの到来に先がけて再臨すると信じられていました。

この洗礼ヨハネがイエス キリストと共に宣教活動をしていれば、イエス キリストの生涯はまた違ったものになっていたかもしれません。しかし実際はイエス キリストはユダヤ教指導者から迫害を受け、最後には十字架にかけられ、ユダヤ教とイエス キリストを信じる集団が袂を分かち、最終的にユダヤ教とキリスト教という別の宗教に別れていきました。

当時のユダヤ人たちの願いはもちろんメシヤの降臨でした。しかし、同時に聖書の預言にあるメシヤの前兆とされていたエリヤの到来をも待ち望んでいました。そのような状況下でイエス キリストがメシヤであるというような集団が現れたため、特にユダヤ教指導者に混乱をもたらしたようです。洗礼ヨハネがエリヤの生まれ変わりだとなれば、話はうまくいったのかもしれませんが、聖書の記録によると、洗礼ヨハネ自身が自分はエリヤでないと否認していることから混乱は収まるどころか、さらに大きくなっていったようです。

さてこの洗礼ヨハネの最期は「サロメ」というオスカー ワイルドの戯曲で有名です。この作品はオペラとしても上演されたことがあります。

当時のユダヤのヘロデ王は腹違いの兄弟の妻ヘロデヤと愛人関係になりました。洗礼ヨハネは「兄弟の妻をめとるべきではない。」と非難したことで、投獄されました。ある時ヘロデヤの娘のサロメがヘロデ王の前で見事な踊りを披露しました。ヘロデ王はその褒美に望みのものは何でもつかわすと言ったところ、サロメが望んだものは洗礼ヨハネの首でした。
マルコによる福音書6章

イエス キリストをして女の生んだ者の中で洗礼ヨハネほど大きな人物はいなかったとまで言わしめた人物の最後にしてはなんともあっけないものでした。以後イエス キリストは当時のユダヤ社会の下層階級や弱者を中心にして支持され、反対にユダヤ教指導者など上流階級からは反対されるようになっていきました。

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