モーセ
キリスト教はイエスキリスト、イスラム教はモハメット、仏教はお釈迦様が言わずと知れた各宗教の創始者です。それではユダヤ教の創始者は誰でしょうか。ユダヤ教は徹底的な偶像拒否、唯一神信仰の宗教です。それゆえに神自身が創始者とも言えます。キリスト教はイエスキリストを神としているので、その意味ではキリスト教も神自身を創始者としているとも言えます。旧約聖書には多くの神の言葉を預かる預言者があらわれますが、その中でもエジプトの奴隷であったイスラエル民族を救出し、シナイ契約を神と結び、12部族を結集する律法を公布したモーセが最も有名であり、ユダヤ教の原点的存在となっています。その教えがモーセ五書です。またモーセはメシヤの原型、イエスの模擬者ととらえる者もいます。ただし現在のユダヤ教徒はイエスキリストを認めてはいないので、モーセがイエスキリストの模擬者であったというと反発を買うかもしれません。イエスキリストは人々の罪からの開放、モーセはユダヤ民族のエジプトからの開放と、どちらも神と対話をしつつ民を開放へと導く使命を果たした点で類似点を見出すことができます。
旧約聖書の創世記、出エジプト記、民数記、レビ記、申命記をモーセ五書といい、ユダヤ教では、律法の書(トーラー)として、最も基本的な正典とされています。それに続く、ヨシュア記、士師記などは、預言書や諸書として取り扱われています。
モーセ五書の中心は、シナイ契約-エジプトの奴隷からの解放の約束です。神様がモーセを仲保者として、イスラエルの民との間に結ばれた契約を「シナイ契約」と呼びます。この契約の前提として、神がアブラハムと結んだという以下の契約があります。以下の契約成就の条件として人間側の守るべき条項として「シナイ契約」が結ばれたのです。
「あなたが伏している地を、あなたとあなたの子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南に広がり、地の緒族はあなたと子孫とによって祝福を受けるであろう。私はあなたと共にいて、あなたがどこに行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。」(創世記 28/13-15)
篤実なユダヤ教徒が現在のイスラエルの領土(占領地を含む)に固執するのは上記のような契約が一つの原因ではないだろうかと思います。
出エジプト(イスラエル民族のエジプト脱出)の話は非常に壮大な話です。そして現在でも出エジプトでの出来事を祝う祝日があります。
モーセ誕生
モーセ誕生時、エジプトの王パロは奴隷のユダヤの民が増え続け、やがて支配しきれなくなることを恐れ、生まれてきたユダヤの男の子は全て殺すようにとの命を下しました。モーセの母親はその赤子を殺すに忍びなく、籠に入れてナイル河に流しました。男の子を乗せた籠を、ファラオの娘が拾い上げ、モーセは命拾いをしました。(出エジプト記一章)モーセはメシヤの原型、イエスの模擬者ととらえられることがあると言いましたが、イエスも誕生後、殺意を持っていたヘロデ王から逃れ命拾いをした(マタイによる福音書 2/13-21)という共通点を見出すことができます。
モーセはエジプト宮中で何不自由なく生活しますが、やがて宮中での生活を捨て、ユダヤの民と共に神の約束の地であるカナン(現在のパレスチナ)へと旅立つようになります。その背後にはモーセの実の母による教育があったと考えられます。モーセの実の母はモーセの実の姉の機転で乳母としてファラオの娘が拾い上げたモーセを成長するまで世話をしました。(出エジプト記2/7-10)偉人の背後に賢母ありです。そういうことからでしょうか、ユダヤ人として既定される条件に母親がユダヤ人であることというのがあります。モーセはある時、ユダヤの同胞がエジプト人から迫害されているのを見かねて、迫害を加えていたエジプト人を殺害してしまいます。このような同胞愛は突然生じたものではなく、幼いときに実の母から植え付けられていたのでしょう。
出エジプト
そのモーセをユダヤ人の祖のアブラハム・ヤコブ・イサクの神が召命し、エジプトの王ファラオにユダヤ人の奴隷の身分からの開放と約束の地カナンに旅立たせるように訴えさせました。しかし奴隷解放はそう簡単になされるものではありません。ファラオは頑なにモーセの訴えを拒み続けました。その時に何が起こったかというとエジプトに様々な災難がもたらされたのです。その一つの事件がユダヤ人の間で現在も祝われている過越の祭り(ペサハ)のルーツとなりました。その事件とはある夜神がエジプトの全ての初子を死亡させたというものです。恐らく疫病がエジプト全土に襲いかかったのでしょう。その時、モーセはユダヤ人たちにその害にあわないためにと、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、その結果ユダヤ人には死者はでなかったのです。その事件が継起となり、ユダヤ人は開放され、カナンへと旅立つようになりました。
エジプトからカナンへ至る道のりは非常に困難を伴うものでした。最初にエジプトの軍隊に追撃され、紅海の岸で絶体絶命の危機に遭遇しました。そこで有名なモーセの杖の一撃により水が真っ二つに割れて、ユダヤ人たちはエジプトの追撃隊の手を免れて無事に紅海を渡りきったという話が出てきます。絶妙なタイミングで潮の満ち干きなどにより、渡ることができたのでしょうか。紅海を渡った事件は後のキリスト教の洗礼へとつながっていくものです。これをもって、ユダヤ人はもう後戻りをすることはできない状況となるのです。カナンへの旅路はまさに荒野の中の旅路であったようです。ユダヤ教に一週間仮庵の祭り(スコット)という祝日があります。これは自分たちの祖先が出エジプト当時、荒野の中で仮庵をつくって過ごしたことを思い起こして祝う祝日です。ユダヤ人たちは庭先などに小屋を作ってその中で食事をしたりします。
シナイ山と十戒
エジプトからの脱出に果たしたモーセ一行は荒野の中を約束の地を目指していくことになります。その途中に出エジプトの中心舞台であるシナイ山があります。
シナイ山は現在のエジプト領のシナイ半島サンタカテリーナという場所にあり、標高2,285mです。カイロから実に700キロ近い道のりを経た場所です。現在エジプトならびにイスラエルからバスでの観光ツアーで多くの観光客が訪れています。また頂上からの御来光を目当ての登山者も多いようです。
エジプトを出て約3ヶ月後のモーセ一行はシナイ山のふもとに到着しました。そこでモーセは山に登るようにとの神からのお告げを受け、そこでが十戒を受け取ったとされています。この事件は、ユダヤ教の成立の上で重大なものでした。以下が旧約聖書の出エジプト記20章に記されている十戒の内容です。
前文:わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。(出エ 20/2)
第一戒:あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。(出エ 20/3)
第二戒:あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。・・・それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。(出エ 20/4-5)
第三戒:あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。(出エ 20/7)
第四戒:安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。・・・主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。(出エ 20/8-11)
第五戒:あなたの父と母を敬え。(出エ 20/12)
第六戒:あなたは殺してはならない。(出エ 20/13)
第七戒:あなたは姦淫してはならない。(出エ 20/14)
第八戒:あなたは盗んではならない。(出エ 20/15)
第九戒:あなたは隣人について、偽証してはならない。(出エ 20/16)
第十戒:あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。(出エ 20/17)
上記の十戒の中で、特に現在のユダヤ教にも大きな影響を及ぼしているのが、第一戒、第二戒、四戒である。ユダヤ教のシナゴーグは実に質素で、信仰の対象として崇める像のようなものが一切ないのは第一戒と第二戒の影響です。ユダヤの神のみを崇め、一切の偶像を崇めないのです。それがユダヤの神を中心とした強烈な自律意識を生み出し、ユダヤ人は頑固者であり、頭を下げるのが嫌いで、自己主張の強い付き合い難い民族だと言われる原因となっているのかもしれません。
実際イスラエルでは二人集まれば三つの政党ができると言われるぐらい自己を主張し様々な意見が飛び交うようです。ある日本びいきのユダヤ人と会って話したとき、イスラエル人は自己を主張しすぎる。それに比べて常に全体を重んじる日本は実にいいと言っていました。
そして第四戒が安息日の規定です。現在イスラエルの公式の休日は日曜日ではなく安息日の土曜日です。
荒野をさ迷う中で、指導者モーセと民衆の間で結束を失うことが度々あったようです。シナイ山頂でモーセに十戒の石板が与えられていよいよ約束の地へ向かって進むかと思われたときもそうでした。民衆は第二戒を破ったのです。金で子牛の像を作り、これをを拝んだと記録されています。(出エジプト記 32/1-6) そしてこの後も何度も何度もイスラエルの民は神様に背き、合計40年の歳月をシナイの荒野で過ごすことになりました。
そこで民衆の結束の中心として幕屋をつくることになりました。この幕屋が後に神殿となり、メシヤ信仰と続いていくことになります。ユダヤ教の聖地である嘆きの壁は後に築かれ、崩壊した神殿のわずかに残った壁です。幕屋はちょうどの日本の御神輿のようなものです。ちなみに御神輿はイスラエルの伝統が日本にもたらされたものという説もあります。御神輿が神社の縮小体であるように、幕屋は将来の神殿の縮小体としての意味があったようです。またそれは来たるべき救世主、メシヤの象徴としてイスラエルの民の結束のためにつくりだされたのです。
出エジプトの話は民衆の結束、ユダヤの神への信仰を保つことの難しさを見事に描き出しています。
モーセの最期と後継者による悲願達成
エジプトを後にし、シナイ山でユダヤ教の基礎となる十戒を受け取ったモーセ一行はカナンの地をめざして、出発の準備を始めました。既に述べましたが、荒野の中をカナンの地まで旅するにあたって、イスラエルの民衆の信仰を保つためにつくられたのが幕屋でした。モーセは幕屋建設の指示を事細かにヤーウエの神より受けとったとされます。後に建設されるイスラエルの神殿は、この幕屋を発展させたものです。幕屋には契約の箱が安置され、その中には十戒を刻んだ二枚の石板が入っていたそうです。幕屋は移動神殿であったわけです。移動神殿と共に、イスラエル共同体は旅する教会として、再び荒野に旅立ったのです。
「イスラエルのすべての家の者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。」(出エジプト40/38)という状況の中で、全て神と共に、幕屋即ち、神殿中心に行動することになりました。
しかし荒野の中を徒歩で旅するのは並大抵のことではなく、イスラエルの民に幾度となくカナンへの旅をあきらめようとする事態が生じました。ヨルダン川東岸(現在のヨルダン領)を北上し、いよいよ約束の地ヨルダン川西岸を目指そうというとき、モーセは神の啓示で、自身はカナンの地に入ることが出来ないと告げられました。モーセは幕屋を中心に、カナンへ至ることに意欲を燃やす次の世代を励ましながら120才の生涯を終えることになりました。
現在のヨルダン領にあるピスガの頂(ネボ山)からは死海の全景は勿論、ヨルダン川、イスラエル側の西岸世界最古の町エリコならびにエルサレムの町まで手のとるように眼下に見ることができるそうです。モーセは、その頂から、約束の地カナンを眺めながら、その生涯を閉じることになりました。(ネボ山は標高710メートルと小高い山になっているが、実際はヨルダン渓谷はマイナス400メートルであり、その落差が1100メートルに達します。)
モーセの意志を相続したヨシュアを中心とした若者たちは、幕屋を担ぎ、ヨルダン川を横切り、西岸へと進軍しました。そして破竹の勢いで、その地域にいた諸王と戦い、勝利を収め、その地に定着基盤を築きました。これは現代のイスラエルが周囲のイスラム諸国と戦い、勝利を収めイスラエルの国を建国し、その地位を不動のものにしていったことを彷彿させます。イスラエルの強さはこのような歴史的、信仰的根拠に由来しているのかもしれません。しかし現代版の方は中東の緊張を生み出したことには違いなく、譲るべきところは譲り、双方の現実的利益のために共存する方向に進んで欲しいと願うばかりです。
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