2024年2月23日金曜日

感謝は世界の見方を変え、私たちに天運をもたらす

Triangle Family教会の説教日本語訳 ー 「感謝は世界の見方を変え、私たちに天運をもたらす」2024年2月18日

原文説教

皆さん、おはようございます。先週の月曜日に説教の依頼を受けましたので、準備する時間を考慮して既に日曜学校で予定していた「わらしべ長者」という日本昔話の道徳的教訓について話すことにしました。

その道徳的教訓とは、感謝は世界の見方を変え、私たちに天運をもたらすというものです。

まず、感謝に関する真の父母様の御言葉と聖書の一節を紹介します。

二世も一世も、信仰の最も基本的な要素である「すべてのものに感謝する心」が欠けている現実を目の当たりにして、私は深く憂慮しています。聖書や原理にあるように、一般的な信仰者はまず天に感謝するものです。しかし、私たちは無意識のうちに自己中心的な信仰生活に陥ってしまっています。(2013.07.05、ハワイ)

私たちは常に感謝の心で毎日を始めなければなりません。私たちはだんだんと老いていきます。人は皆、健康にとても関心がありますが、健康に関して最も大切なことは、常に前向きで、幸せで、感謝の心を持って生きることです。朝、目を覚ましたら、笑顔で「今日も幸せな一日が始まる!」と声を上げます。そうすれば、すべての病気が治り、エンドルフィンが分泌されるのです。(2006.03.22、日本、東京)

欲、妬みを捨て、感謝の心で生きることができれば、毎日が天国になります。(2016.07.07、天正宮)

テサロニケ人への第一の手紙 5:16-18

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

このみことばの要点は次のようなものです。

  • すべてのことに感謝する心は、信仰の本質的な部分です。
  • もし私たちが自分の人生に感謝するなら、毎日が天国になります。
  • どんな状況でも感謝することが神の御心です。

「わらしべ長者」は、貧しい青年が小さなことに感謝し、大金持ちになったという日本昔話です。

貧しい青年が貧しさから抜け出すために観音様に助けを求めました。観音様は最初に手にしたものを持って西へ旅しなさいとおっしゃいました。彼は寺を出るときにつまずき、藁の切れ端を手に取りました。旅をするうちに、彼は人々を助け、彼の持ち物は一片のわらからみかん、絹、馬、そして最後には田んぼとお屋敷へと変わっていきました。

何が貧しい若者を富に導いたのでしょうか?この物語から私たちはどんな教訓を学ぶことができるでしょうか?以下の3つが考えられます。

  • 仏への信仰
  • 感謝
  • 他者への奉仕

若者が最初に地面から拾い上げたのは、一片のわらでした。私たちはそれを小さく、取るに足らない、価値のないものだと思います。

しかし、彼は観音様を信じ続けました。観音様は彼に、手にした最初のものが幸運をもたらすと告げたのでした。

一片のわらが何の助けになるんだと不平を言い、やめたかもしれない。しかし、彼は観音様の言葉に忠実であり続け、一片のわらと感謝の気持ちを持って進んだのです。

オックスフォード・ランゲージズによれば、「感謝」とは「ありがたく思い、親切でお返ししようとする姿勢」とあります。

私たちは、物事が思い通りに運んだり、望みがかなったりすると、簡単に感謝の気持ちを抱くことができるものです。

しかしながらすべての状況、特に好ましくない状況において感謝を感じることは難しいものです。

物事がうまくいかないときや、望みが叶わないときでも、感謝することは可能でしょうか?

ある人は言います。「感謝は人間の強い感情であり、世界の見方を変えることができるものです。」

あることわざには、「感謝はありふれた日々を尊い日々に変え、退屈な業務を喜びに変え、何気ないチャンスを祝福に変えます。 」とあります。

UCLAのマインドフルネス・アウェアネス研究センターは、感謝の気持ちが脳の神経構造を変化させると述べています。どんな状況でも感謝の気持ちを感じられるように、脳を訓練することができるのです。

どんな状況でも感謝の気持ちを感じる秘訣のひとつは、「ありがとう」という言葉に見出すことができます。

ありがとうの語源は、奇跡を意味する「有り難い」です。

お釈迦様は、人間として生まれることは奇跡だと教えられました。人間として生まれることがいかに奇跡であるかを説明するために、お釈迦様が弟子に語った話を紹介します。

「盲亀浮木」の例え話です。

大海の底に盲目の亀がいました。100年に一度、亀は息をするために海面に上がってきます。

海には一本の木が浮かんでいて、その中心には穴が開いています。 百年に一度、海面に上がってくるこの亀が、浮木の穴から頭を出すことがあるでしょうか? お釈迦様の弟子は「そんなことはあり得ないし、想像もできません。」と答えました。お釈迦様は言われました。まったく不可能なことではないのです。人間として生まれることは、この例よりももっと難しいことなのですから。人間として生まれることはとても貴重なことであり、奇跡なのです。

私たちの地球もまた奇跡なのです。

ハビタブルゾーンの意味をご存知でしょうか?天文学の用語です。

ハビタブルゾーン(「ゴルディロックスゾーン」とも呼ばれます)とは、恒星の周囲にある惑星の表面に液体の水が存在するのに適した条件を満たす領域のことです。

太陽系外で確認されている1,780個の惑星のうち、16個がハビタブルゾーンにあります。大きさも重要です。小さすぎる惑星は大気を維持できず、大きすぎる惑星はガス惑星になります。

地球はハビタブル・ゾーンに位置しています。

地球がもう少し太陽に近かったら、あるいは太陽から遠かったら、生命は誕生しなかったでしょう。

地球がもう少し大きかったり小さかったりすれば、生命は誕生しなかったでしょう。

わらしべ長者の話は他者への奉仕が、天運をもたらすためにいかに重要であるかも示しています。

この物語を読んで、私は「一期一会」という言葉が思い浮かびました。

余談ですが、映画『フォレスト・ガンプ』の日本語の副題は「一期一会」となっています。

一期一会の由来は日本の茶道です。茶道では、亭主も客も二度とない出会いであることを自覚します。お互いに誠意を尽くし、その時、その機会を大切にし、最高のサービスを提供することが強調されます。

今日、真の父母様の誕生日と「基元節」の記念日をお祝いします。真の父母様との出会いは人類史上初めてのことであり、二度とないことです。真の父母様と、真の父母様に祝福されたメンバー同士に感謝する時です。

一世のメンバーは、真の父母様による人生が変わる経験をしましたので、真の父母様に対して感謝の念を抱くことはより容易です。二世のメンバーの中には、真の父母様がどのような方であるかを理解していない人もいると思います。それでもいいのです。一世のメンバーでさえ、真の父母様が本当にどのような方であるかをまだ見出す途上にいるからです。

二世が真の父母様に感謝できることが一つあります。

それは何でしょうか。二世の皆さん、皆さんは真の父母様がいなければ生まれてきませんでした。真の父母様は二世以降の世代にとって先祖のような存在です。

真の父母様への感謝を忘れず、惜しみなく人のために尽くせば、必ず天運が訪れるのです。

2024年2月1日木曜日

神秘体験は誰にでも可能

Triangle Family教会の説教日本語訳 ー 「神秘体験は誰にでも可能」2024年1月7日

原文説教

説教の題目は「神秘体験は誰にでも可能」です。神秘体験とはどういうものでしょうか?定義するのは難しいです。目に見える物質的なものではないものですか?その通りです。でも、空気は目に見える物質的なものではないですが、神秘とは言えません。霊的な領域での霊的体験ですか?それに近いです。神秘体験とは、説明のつかないものと言われます。有名な哲学者ウィリアム・ジェームズは、神秘体験は言葉を超えたものだと言いました。

神秘体験の本当の定義は、神と直接出会うことです。私は若い頃、そのような体験をしたことがありませんでした。私は毎週日曜日に教会に通いましたが、それは両親に強制されたからにすぎません。4歳から16歳まで毎週日曜日に教会に通いましたが、神の存在を感じたことはありませんでした。

16歳のとき、神を見たことも、感じたことも、話したこともなかったので、神の存在を疑いまった。それで私は不可知論者になりました。不可知論者とは、神の存在について確信が持てず、明確な立場を持たない人のことです。16歳の時の私はそうでした。しかしその後、私は神との直接的な体験をし、それが私の信念を変えました。今、私が神を信じているのは、学んだからではなく、個人的に神を体験し、神を知っているからです。

私は、神との体験を引き起こすテクニックがあることを発見しました。神との直接的な体験をするために、実際にできることがあるのです。

神学校のチャペルに掲げられていたプレートには、こんなことが書かれていました。それは、創立者である文鮮明師が1985年にUTSで行った卒業式のスピーチからの引用です。文鮮明師はこのキャンパスを、学生たちが個人的な信仰を成長させ、また神の霊との本格的な霊的コミュニケーション、直接的な出会いができる場所にしたいと言われました。UTSの学生が少なくとも一度は神を直接体験できるように、それが彼の願いでした。それを見たとき、私はとても嬉しかった。神学校にはミッション・ステートメントがあり、その一部には神との関係を向上させるというものがあります。ですから、UTSに行けば、以前よりも神との関係が強くなっていなければなりません。しかし、必ずしもそうなるとは限りません。

私は自分自身が神秘的な体験をした後、神との神秘的な体験の仕方を他の人に教えるようになりました。執筆活動のほかに、私は世界中で修練会を開き、より高い意識状態に到達するのに役立ついくつかの方法を人々に教えてきました。私が修練会で教えている3つの主な方法は、ハンズオン・ヒーリング、瞑想、そして神とのジャーナリングと呼んでいるものです。他にも方法はありますが、私が力を入れているのはこの3つです。

ハンズオン・ヒーリングでは、グループを2人のチームに分けます。一人が椅子に座り、もう一人が後ろに立って手を置く。そして、私はあるプロセスを通して指導し、人々は神を即座に体験するのです。人々が経験したことのいくつかを紹介します。

神を体験したければ、それが可能だと信じることです。多くの人はそれを信じていないし、信じなければそれは起こらない。可能性に対して心を閉ざしてしまうのです。数年前、イタリアのミラノで行われた私の修練会に参加した女性のことを思い出します。彼女は瞑想をしていて、自分の光と神の光を融合させようとしていました。しかし、神と融合する直前、彼女はその体験を止めたのです。彼女はそれが自らやめたとわかっていましたが、動揺していました。私は彼女に、リラックスして目を閉じ、胸に手を当てるように言いました。なぜあの体験を終わらせたのか、自分の心に問いかけるように言いました。彼女はそうして目を開け、わかったと言いました。自分にはそのような経験をする価値がないと感じたからだとです。それは最も一般的な障壁であり、人々が神に抱かれるに値しないと感じていることを私は悲しく思います。

10年間親元を離れていた子供が、ようやく親と再会したとします。親はその子を抱きしめたくなるが、子どもは「抱きしめられる資格はない」と言うのです。両親はどう感じるでしょうか?心が打ち砕かれるでしょう。それが神の気持ちです。私たちは皆、自分がとても罪深く、とても悪く、とてもふさわしくない存在であるかのように感じています。

次にイタリアに住む日本人女性のケースです。彼女はイタリア人男性と結婚しています。彼女は瞑想を始めました。彼女は瞑想の中で穏やかな光を感じ、それが脈打つ波のようにどんどん大きくなっていくのを感じました。神が彼女に感謝の気持ちを表すのを聞きました。神は彼女に感謝し、彼女を探していたと言いました。彼女は深い愛と力強い暖かさを経験しました。まるで最初からしっかりと抱きしめて、決して見捨てない母親のようでした。神は母のような存在だと彼女は感じました。統一教会で40年以上過ごしてきた彼女にとって、これは初めての経験でした。彼女は、神が自分を一人の人間として認識しておられることを知り、感動しました。神は彼女の名前を知っておられたのです。

次はモルモン教出身の15歳の少女のケースです。彼女は瞑想法を試しました。彼女はうつ病と闘っており、自傷行為もしていました。私たちは彼女が自殺するのではないかと心配していました。ある修練会で、私は瞑想のセッション中に、彼女の顔の前に回転するエネルギーの渦を霊視しました。彼女はこのエネルギーの影響を存分に感じて泣いており、瞑想が終わると彼女の顔は涙で濡れていました。

彼女の両親の紹介で彼女と知り合うようになりました。彼らは私のプログラムに来て、彼女のことを私に話してくれました。私の亡くなった息子のジョシュアは彼女を霊的に訪ねており、彼女の両親に彼女のことは心配いらないと伝えてくれるように私に言いました。彼女は修練会の前に、すでにジョシュアと霊的な体験をしていたわけです。

彼女は白い光の存在に出会い、それが神だと信じています。神はこう言いました。私は、あなたが幼少期に多くの苦しみを味わったことに心痛めている。こんなふうになるとは、決して私の計画ではなかったのです。そして神は彼女を抱きしめるのです。神は言いました。私はあなたを助けるために何人かの人々をあなたの人生に関わるようにしました。ジョシュアもその一人ですが、地上にもいるのです。彼らはあなたのためにいるのです。私はあなたのためにここにいます。あなたが私を求めるときはいつでも、あなたの心にたくさんの愛があることを気づかせてあげましょう。あなたがそれを他の人に広めることを願っています。神はそうしなければならないとは言うのではなく、そうすることはあなたのためになると言っているのです。

彼女は以前なら、学校にくだらないシャツを着てきたオタクの男の子に悪口や皮肉を言ったかもしれません。でも今はもうそんなことはしません。彼女はより親切になり、人に対して忍耐強くなりました。それが神との出会いによる精神的成長です。

完璧な社会、宗教でいう天国を地上に作る方法は、個人を一人ずつ変えていくことだと私は信じています。神との体験、とりわけ神の無条件の愛のおかげで、この若い女性は今、神の娘としての自分のかけがえのない価値を知っています。このことを心の奥底で受け入れると、他人を傷つけることができなくなります。だから彼女は学校で他の生徒をいじめなくなったのです。私は「平和は私から始まる」というモデルに共感します。平和な個人を一人一人作っていかなければ、平和な世界は手に入らないと思うからです。

この出来事は10年以上前に起こりました。この若い女性は、神秘体験の効果によって、自傷行為に終止符を打つことができった。彼女は自傷行為を止め、自殺願望もなくなりました。彼女は結婚して子供もいます。

私のプログラムに参加した多くの人が、同じような体験談を話してくれました。このような体験は誰にでもでき、人生を変えることができると私は信じています。人々は神との個人的なつながりを持つことで、自分がどれほど愛され、大切にされているかを感じることができます。彼らはまた、より力を与えられたと感じ、私の考えでは、これは神の国が完成に近づくのを助けます。

ある女性についてお話したいと思います。前回の選挙では、ヒラリー・クリントンとトランプの二者択一でした。私はどちらかに票を投じ、彼女はもう一方に票を投じました。彼女は私に腹を立てました。私が票を投じた候補者は悪者だと思っていたのです。彼女は私と話すのをやめ、とても酷いメールを送ってきました。でも私は返事をしませんでした。私はただ彼女を愛し続けました。数年後、彼女は私に謝りの連絡をくれました。

彼女はこう書いてきました。 

「ロンと出会ったのは、彼が自宅で修練会を開いていた何年も前のことです。彼は私に瞑想と神との日記の書き方を教えてくれ、私はそれを毎日実践しています。彼のレッスンとジャーナリングは、私が最初の本『Dear Lord, I'm listening』を書くのに役立ちました。それは驚くべき経験で、私は聖なる霊の賜物を発見し、さまざまな背景を持つ人々にインスピレーションを与えるメッセージを書くことにつながりました。サイキック・ミディアムとしての才能を伸ばすためにロンが教えてくれたことすべてに感謝しています。私はこの才能を使って、愛する人を失って悲しんでいる多くの人々を助けてきました。私は、神と残された人々に仕えるためにこのようなことをしています。この素晴らしいスピリチュアルな体験は、ロン・パパラルドと彼の教えのおかげです。ロン、この素晴らしい贈り物をありがとう。」

心を開くだけでいいのです。神は存在し、神は私たちの中にいて、24時間365日絶え間なく私たちを取り囲んでいます。私たちはただ、神が持っているバイブレーションに自分を合わせるだけでいいのです。

2024年1月31日水曜日

信じることと信仰の違い

Triangle Family教会の説教日本語訳 ー 「信じることと信仰の違い」2024年1月28日

原文説教

 1月になったばかりなので、新年を祝していいですし、この月が何を意味するのかを振り返ってもいいです。未来がどんなことをもたらすのか、そして自分の心の道しるべに従うにはどうしたらいいのかを考えました。私たちはみんな、道しるべを持っていて、同じミッションや目標を持っています。今朝は素晴らしいことをお伝えしたくて、モーニング デボーションからインスピレーションを得ました。

リーバイという私たちの兄弟が、先週の金曜日に深いメッセージと洞察を語ってくれました。彼はダンベリーの事例について、真のお母様の手記を朗読しました。リーバイはその話題に触れました。私は彼の10分間のメッセージのその部分を再生したいと思います。

リーバイの伝えたことには、私も感じるところがあります。それは、私が目の前で見ていたダンベリー裁判が、本当の家庭、アメリカ、そして世界中にとってどんなに深刻で傷つくものであったかを、そのときは十分に理解していなかったからです。私は神学校にいたと思いますが、ある裁判に出席するように言われました。私はその場にいて、その状況を傍観者として振る舞いました。感情移入することもなければ、問題の緊急性を実感することもありませんでした。

私が宣教のためにニューハンプシャーに滞在していた時、韓国の指導者がイーストガーデンを訪れて、そこである聖地で祈ったり、真のお母様に会ったりするように言いました。私たちはその指示にしたがって、その行事に参加しましたが、その時の事態の深刻さや切迫感は感じられませんでした。祈祷会の後、翌日の朝、真のお母様とそこのテーブルで顔を合わせました。彼女の雰囲気や様子は、言葉で説明できません。彼女は、私たちと一緒にここで朝食を食べたくないと言われました。意地悪や皮肉で言われたのではありません。

彼女は困難な状況でも、真のお父様の例に従って常に他者を思いやることを実践したのだと言われました。だから彼女は、本当ならお父様のそばにいてあげたかったところを私たちを朝食に招待されました。彼女はその後すぐに、お父様に会いにダンベリーに向かう予定でした。

真の父母様、神の娘と息子、神ご自身の神聖な家族と共に働いている時、それはこの時のために用意されたものであり、最後の瞬間が来るのを6千年も待っていたのです。最後の瞬間が来て、すべてがうまくいっていると思った時、サタンが襲いかかります。

何年もの間、私は彼らが自分よりも高いところから力を得て、いつも状況を克服しているのを見てきた。だから、お母様が初めて私たちの運動の主役になり始めたとき、私たちは皆、何が起こっているのか不思議に思いました。そして彼女は毎日、お父様から聞いたダンベリーでの出来事を私たちに話してくれました。当時、公民権運動の指導者たちが私たちを支援してくれたこともはっきりと覚えています。

私たちはホワイトハウスに行き、平和的に行進し、ろうそくを灯し、手すりに手錠をかけ、私たちの心がこの国の黒人教会に強く届くように祈りました。

私は最後に、信仰はしばしば信じることよりも重要であると言いたいです。私たちはお父様を信じ、お父様が真の父母であることを信じ、お父様がメシアであることを信じ、あるいは私たちが何を信じているにせよ、困難な時、物事が暗く、私たちの道が見えない時、私たちが頼りにしていた指導者たちが投獄され、私たちの偉大な指導者であるお父様が私たちを助けることができなくなった時に、信仰を持たなければ、私たちはどうすればいいのでしょうか?決して後ろを振り返らず、疑わず、疑問を抱かず、ただ前進し続けるのです。

鷲は私たちの国のシンボルですが、代わりにバッファローを選ぶべきだったのではないかとよく考えます。バッファローは、その生き方や特徴において非常にアメリカ的であります。嵐が近づくと、バッファローは子供と仲間を守るために、彼らの周りに輪になります。そして嵐に真っ向から立ち向かい、頭を下げ、嵐をやり過ごすまで前進します。彼らは決して嵐から逃げないのです。

私たちの人生には、お父様がダンベリーにいて、お母様がすべてを取り仕切らなければならない状況に対処しなければならないような困難に直面するときがあります。

私たちは困難な時期に直面するかもしれませんが、私たちの義務は神の御心に従い、あきらめないことだと言いたい。霊の子どもを得るためではなく、世界を救うために伝道しなければなりません。そうしなければ、真の父母は再び危険にさらされるからです。兄弟姉妹の皆さん、前進し続けましょう。私たちは天国を築かなければならないのです。

このビデオは私に多くのことを考えさせました。特にリーバイが言っていた信じることと信仰の違いについて興味がありました。私は以前は逆のことを考えていましたが、ネットで信じることと信仰について調べてみると、信じることは通常、知的な意味で何かに同意することを意味し、信仰とは何かを信頼する、頼ることを意味することを知りました。私たちは天一国時代に生きていると言われます。私はそれを信じているのだろうか?それは私にとって大きな疑問です。私たちが新しい時代にいること、新しい霊的現実に従って生きていることを信じているのか。大きな疑問です。

イエスは、自分たちを信じて従ってきたと言う弟子らを叱責されました。イエスは彼らに言われました。あなたたちは、私が奇跡を起こしたのを見て、私が言ったことを受け入れたが、神が私を通して働いておられることを本当に信仰したのか?私が一晩中祈るように言ったとき、あなたは私と一緒にいるだけの信仰がありましたか?いや、そうではなかった。信じてはいたけれど、信仰していなかった。これは私にとって非常に意味のあることであり、リーバイがこのことに言及してくれたことに感謝しています。真のお母様がおっしゃった言葉を最後に紹介したいと思います。

ハワイのガジュマルの木についてです。ガジュマルの木は巨大で葉が茂り、強い日差しを遮ってくれます。人々はその枝の下でリラックスすることができます。この木は空に向かって伸びるのではなく、枝が地面に向かって伸びています。根をたくさん張り、どんどん横に広がっていきます。木はどんどん大きくなります。枝が根のように地面に下りていくことで、木が安定します。天の父母様が創造した自然界を見ると、私は自己実現ができます。真のお父様は、世界中の野生の遠隔地に行かれ、多くの献身条件を持って愛の根を伸ばされました。

真の父母として行動され、6000年ぶりに人類の成功の基盤を築かれましたが、世界全般を観察すると、私たちの献身を必要とするものがまだまだたくさんあることに気づかされます。

お母様が教えてくださるように、創造物を見るとき、私たちはそこから多くのことを学ぶことができます。私たちが本当に信仰を働かせるなら、ガジュマルのような強い木に成長できることを願っています。

私たちの尊い天の父母、天地と人類の真の父母、 

私たちが生きている時代は驚くべき時代であり、私たちは真の父母と共に信仰生活を送り、神の原理を理解しているため、一定の概念的、知的理解を持っています。

しかし、私たちの信仰生活において、私たちの心はしばしば弱いと思います。私たちに与えられ、私たちに長年教えられてきた貴重な言葉を心から信じるならば、私たちはガジュマルの木になることができます。兄弟姉妹と共にこの祈りを報告します。

2023年12月20日水曜日

イエス キリストの足跡

イエス キリストの足跡

 ○エリコ


新約聖書によると、イエス キリストは洗礼ヨハネと別れた後、荒野で40日断食をし、悪魔によって試練を受けたとあります。エルサレムから死海に行く途中エリコという町があります。海抜マイナス350mのオアシスの町ですが、そこに誘惑の山(Mount of Temptations)というイエス キリストが悪魔の試練を受けたとされる場所があります。エリコはまたモーセの後継者ヨシュアを中心とするイスラエルの民が町の城壁の周りを7回回って掛け声をあげると、城壁が崩れたという話の舞台でもあります。そして、1994年にガザとともにパレスチナの完全自治地区となっているパレスチナの町です。

○ガリラヤ湖畔

イエスキリストは宣教の地としてガリラヤ湖畔を選び、3弟子のペテロ、ヨハネ、ヤコブを初めとする多くの信者を獲得します。

イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海辺の町カペナウムに行って住まわれた。(マタイ4:12-13)

ガリラヤ湖にセイント ピーター フィッシュ(St. Peter's fish)と呼ばれる魚がいます。クロスズメダイの一種でオスは口の中で稚魚を孵化させ、稚魚が再び口に還って来ないように口に石を加えるという習性があるそうです。新約聖書のイエス キリストがペトロに命じて湖に網をいれさせると口に銀貨をくわえた魚が獲れたという話にちなんで名づけられた魚です。ガリラヤ湖畔にはこの魚が用いられた名物料理があります。 

イエスはガリラヤ全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆるわずらいをおいやしになった。その評判はシリヤ全地にひろまり、---ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こうから、おびただしい群集がきてイエスに従った。
イエスはこの群集を見て、山に登り、---教えて言われた。(マタイ4:23-5/2)


ここで説かれたのが有名な山上の垂訓です。下の写真はガリラヤ湖が一望できる標高125mの山上の垂訓の丘の上に建つ山上の垂訓教会です。




下の写真は紀元数世紀まであったカペナウムのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の遺跡です。その更に下にはイエスキリストが説教したとされるシナゴーグの土台石があると言われています。



イエスキリストのこの地での宣教ならびに癒しの活動の対象は主に貧しい者や弱者や一般社会から忌み嫌われるものたちでした。弟子たちが空腹であれば、安息日であっても穂を摘んで食べることを認め、安息日であっても人を癒すことをいといませんでした。このようなイエスキリストの活動は大いに民心をとらえるものでありましたが、ユダヤ教指導者など社会の上層階級にいる者たちの妬みをかうことになりました。そして最後にはそういった人々の手により十字架への道へと追いやられるようになったのでした。

イエスが2匹の魚と5つのパンを祝福して増やし、説教を聞きに集まっていた5000人あまりの聴衆を満腹にさせたという奇跡にちなみ建てられたパンの奇跡の教会もガリラヤ湖畔にあります。キリスト教の伝承で古くから奇跡ゆかりの場所とされています。会堂の中にはビザンチン時代のモザイクの床が残っています。

イエスは五つのパンと二匹の魚とを手にとり、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群集に配らせた。みんなのものは食べて満腹した。(ルカ 9:16-17)


○タボール山(変貌山)

イエス キリストが幼少期を過ごしたナザレの町から西へ数キロのところ、イスラエル北部の穀倉地帯イズレル平野の北端に、標高588メートルの山があります。それがタボール山です。

新約聖書によると、イエス キリストが3弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山(これがタボール山と言われている)に登ると、

イエスの顔が日のように輝き、衣は光のように白くなり、モーセとエリヤが現れた。
(マタイ17:1)
とあります。
イエスの姿が変貌したことから、別名を「変貌山」とも言われています。

現在、タボール山の頂上には、フランシスコ派の教会と、ギリシャ正教の教会が建てられおり、頂上一帯は国立公園として指定されています。





○バニアス自然公園

イスラエル、シリア、レバノンの3国が接する地、ゴラン高原にバニアス自然公園があります。イスラエルが占領しているこの地は現在シリアへの返還が検討されています。バニアスという名は、古代ギリシャ人が半人半獣の森の神「パン」を祭った神殿をここに建てたことに由来するそうです。




イエスは、フィリポ・カエサリア地方に行ったとき、弟子たちにお尋ねになった。『人々は、人の子(私)のことを何者だと言っているか』---シモン ペトロが答えて言った。『あなたは生ける神の子キリストです』(マタイ16章)

この地は信仰告白した使徒ペトロにキリストが天国の鍵を授けた場所として知られています。

現在のイスラエル北方で宣教を続けたイエス キリストは最後にエルサレムに向かい、十字架にかかることになります。

貧しい大工の家庭で成長した一人の青年イエス キリストが名もない布教者として立ちあがり、漁夫や取税人や遊女といった下層階級の人々を弟子とし、一見すると安息日を始めとするユダヤ人たち救いの基準である律法を無視するようなこともしました。そうしてイエス キリストはユダヤ人の指導者たちから今で言うカルト集団の教主のように見られるようになりました。マグダラのマリアがイエスの足を涙でぬらし、自分の髪でぬぐい、その足に接吻して、高価な香油を塗った行動は、淫行の女は石で打ち殺してもよいというほどのユダヤ人の厳格な倫理社会においてはイエス キリストの弟子の間でも理解できないものであったようです。

自らが人々の罪を背負って命を捨てることによって罪人をすら救うという、それまでのユダヤ教の世界では考えもつかなかった愛による救いというものをマグダラのマリアは理解していたのでしょうか。しかし、力でローマの勢力を追い出し、ユダヤ民族を解放し、ユダヤの王となるという当時のユダヤ人の救世主観を抱いていたイスカリオテのユダは、それが実現されないことに絶望し、イエス キリストを銀貨30枚と引きかえに祭司長らに引き渡しました。そしてイエス キリストは十字架にかけられることになりました。

○ダビデの町

旧市街の嘆きの壁近くの糞門を出た南側はダビデの町と呼ばれています。

シロアムの池
ダビデの町にイエス キリストが生まれつきの盲人を癒す奇跡を行ったとされるシロアムの池があります。

紀元前1000年頃、ダビデ王とその従者たちとは、エルサレムの先住民エブス人を彼らが水をくみ上げる縦穴から兵を送り、その地を攻略しましたた。(サムエル記下5:6-8)

旧市街の城壁の外のギホンの泉からシロアムの池まで続く地下水道には現在も水が流れています。

イエスが道を通っておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生まれつきの盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか。」イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもない。ただ神の御業が彼の上に現れるためである。----」イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って言われた、「シロアムの池に行って洗いなさい。」そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。(ヨハネ9:1-7)

○オリーブ山 

エルサレムの旧市街の東、ライオン門を出ると、オリーブ山と呼ばれる小高い丘があります。エルサレム旧市街を見渡すことができます。

主の祈りの教会
主の祈りの教会オリーブ山を登ったところにイエス キリストが弟子たちに祈りを教えたとされる「主の祈りの教会」があります。ローマ皇帝コンスタンチヌスの母ヘレナが建てさせたと言われます。教会内には以下の祈りを世界の各言語で書いた石碑が並んでいます。

だからあなたがたはこう祈りなさい、
天にいます我らの父よ、御名があがめられますように。
御国が来ますように。
御心が天に行なわれる通り、地にも行なわれますように。
私たちの日ごとの食物を今日もお与え下さい。
私たちに負債のある者を許しましたように、私たちの負債をもお許し下さい。
私たちを試みに会わせないで、悪しき者からお救い下さい。
(マタイ6:9-13)


主の泣かれた教会主の泣かれた教会
オリーブ山の斜面、旧市街が見渡せる場所に「主の泣かれた教会」があります。これはイエス キリストがオリーブ山の山頂に立ち、当時のユダヤ教指導者の無理解を嘆き、エルサレムの将来を案じて、エルサレムのために泣いたという新約聖書の記述に基づいて1955年に建てられたものです。

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前に遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど雌鳥が翼の下にその雛を集めるように、私はお前の子らを幾度集めようとしたであろう。それだのにお前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられてしまう。(マタイ23:37-38)

ゲッセマネの園ゲッセマネの園
オリーブ山の斜面に広がるオリーブ園が人々の不信仰によって追い詰められたイエス キリストが人類の運命をかけて血の汗を流し、神の前に祈りを捧げたと言われるゲッセマネの園とされています。

「私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、私と一緒に目をさましていなさい。」そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたら、どうかこの杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし私の思いのままにではなく、御心のままになさって下さい。」(マタイ26:38-39)

そしてイエスキリストが壮絶な祈りを捧げる中、弟子たちが眠りこけ、弟子の一人のイスカリオテのユダの裏切りによってイエス キリストが捕らえられたとされる「ゲッセマネの岩屋」があります。

それから弟子たちの所に帰って来て、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡せられるのだ。立て、さあ行こう。見よ、私を裏切る者が近づいてきた。」そしてイエスがまだ話をしておられるうちに、そこに十二弟子の一人のユダが来た。また祭司長、民の長老たちから送られた大勢の群衆も、剣と棒とを持って彼について来た。----弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
(マタイ26:45-56)


○シオンの丘

旧市街の南西にあるシオン門を出たところにシオンの丘が広がります。シオンの丘は古来からイスラエルやユダヤ民族を象徴し、19世紀末頃から精力的にイスラエル建国のために展開された運動であるシオンニズムはこのシオンの丘に因んで名づけられました。

最後の晩餐の部屋最後の晩餐の部屋
イエス キリストがユダヤ教の指導者たちによって捕らえられる前夜、イスカリオテのユダを含む12弟子とともに食事をしたのがレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画で有名な「最後の晩餐」です。最後の晩餐が行われたとされる場所がシオンの丘にあります。

この最後の晩餐はユダヤ教三大祭りの一つ、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が神によってモーセに率いられ、エジプトから救いだされたことを祝うペサハ(過越の祭)の食事であったようです。ペサハに食べるマツオットというクラッカーのようなものがありますが、これがキリスト教会の聖餐式という儀式に使用されるクラッカーのようなものの由来になったようです。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これは私の体である。」また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「皆、この杯から飲め。これは罪の許しを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である。」(マタイ26:26-28)

鶏鳴教会
聖書の記述によるとゲッセマネの園で捕らえられたイエス キリストは大祭司カヤパのもとに連れて来られたとされます。シオンの丘の斜面にその大祭司カヤパ邸の跡に建てられた鶏鳴教会があります。鶏鳴教会の名前はイエス キリストの予言のとおり、弟子のペテロが三度イエスを知らないと嘘をついた後に鶏が鳴いたという聖書の話に由来します。鶏鳴教会内にある石段は当時イエスキリストが祭司カヤパのもとに連れて来られる際に通ったとされています。

イエスを捕まえた人たちは、大祭司カヤパの所にイエスを連れて行った。(マタイ26/57)

ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見届けるために、中に入って下役どもと一緒に座っていた。

すると一人の女中が彼の所に来て、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった。」と言った。するとペテロは皆の前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか分からない。」そう言って入口の方に出て行くと、他の女中が彼を見て、そこにいる人々に向かって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった。」と言った。そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない。」と誓って言った。暫くしてそこに立っていた人々が近寄って来て、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉使いであなたのことが分かる。」彼は「その人のことは何も知らない。」と言って、激しく誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは「鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うであろう。」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
(マタイ26:58-75)


鶏鳴教会の地下に大祭司カヤパ邸の地下牢の跡があり、そこにイエス キリストが十字架に架けられる前に留置されたとされています。現在その壁に人影のようなしみが浮かび上っていますが、それはイエス キリストをあらわしていると言われています。

ヴィアドロローサ十字架への道
紀元28・29年頃、イエス キリストはローマのユダヤ提督であるポンテオ ピラトにより、十字架刑を言い渡されます。聖書によるとピラトはイエス キリストを死刑にする意図はなかったようですが、ユダヤの民衆の強い要求により、極刑に処したとされています。ユダヤの民衆はイエス キリストの血の代償が後孫に及んでも構わないと言ったとされていますが、これが後にイエス キリスト殺しというユダヤ人迫害の材料の一つになってしまいました。

エルサレムの旧市街の東、ライオン門から旧市街の中心部へと続く道はイエス キリストが茨の刺のある冠を被され、重い十字架を担ぎ、ゴルゴダの丘へと向かったといわれる道で、ヴィアドロローサ(悲しみの道)と言われています。

ヴィアドロローサには14のポイントがあり、ここを巡礼するキリスト教徒たちは一つ一つの場所でイエス キリストの十字架の歩みを偲ぶようです。ちなみに当時の道は現在の地下に埋もれているそうです。

死刑の判決を受けたイエスキリストは茨の冠をかぶせられ、ローマ軍の兵士により鞭で打たれ、十字架を担がされます。ゴルゴダの丘への途中、大勢の民衆と悲しみ嘆いてやまない女性の群れとがイエスに従って行ったようです。イエスをいたわり、イエスの汗と血をハンカチでぬぐったヴェロニカという女性がいたとされ、そのハンカチにイエス キリストの顔が浮かびあがったと言われています。イエスは女性の集団に向かって、
「エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろあなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。」(ルカ23/26-28)と言ったとされています。

イエス キリストはエルサレムの神殿の崩壊を予言し、エルサレムの行くすえを憂えたとされます。現在中東和平実現への障害としてその帰属問題が取り上げられているエルサレム旧市街の神殿の丘はイエス キリスト当時ユダヤの神殿があったとされる場所です。イエス キリストが憂えたとおり、神殿は紀元70年ローマ帝国により破壊され、ユダヤ人たちの世界各地への流浪が始まったのです。

イエス キリストが処せられた十字架刑は、古代ペルシア人、カルタゴ人、ローマ人の間で行われていた死刑の形式で、極悪非道な罪を犯した者や奴隷に対する極刑でした。処刑者の頭上にはその名前と罪状を記した板がはりつけられたそうで、イエス キリストの場合、「INRI」と記された銘板が掲げられました。ラテン語の “Iesusu Nazarenus Rex Iudaerum”の略で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の意味だそうです。

聖墳墓教会

イエス キリストが教えた内容ならびにイエス キリストを信奉する集団は当時のユダヤ教指導者の権威基盤とそれまでの伝統に挑戦するものとなり、結局はユダヤ教から受け入れられずに終わってしまいました。

ユダヤ教徒としてのアイデンティティーと義は律法を遵守することによって確立されていました。それゆえ熱心なユダヤ教徒は一生懸命頑張って律法を守っていました。しかし、その場合おうおうにして自分の立っている立場の優位性をそうでない人と比べることによって自己を誇りとしてしまうことがありました。

当時、神殿には大きな献金箱がおいてありました。イエス キリストは多くの人々が献金して行くのをみる中で、ある一人のやもめがレプタ二枚を入れるのを見ました。一日が終わった後弟子達に「今日多くのひとが献金したが、一番多く献金したのはあの寡婦である」と教えました。

多額の献金をした者は、自分よりも小額の献金をしている者との比較で自己の優越性を感じていました。そのような者たちに対してイエス キリストは白く塗られている墓であり、死人の汚物や骨で一杯だとその偽善性を批判しました。

またイエス キリストは神に対し、我が父よと呼びかけていますが、これも当時のユダヤ教にとっては画期的なものでした。ユダヤ教では神は超越した創造主としての存在です。それに対しイエス キリストは神との親子の人格的交流を説いているのです。

イエス キリストはユダヤ教には受け入れられずに終わってしまいますが、十字架上で自らを殺害しようとする敵をも愛する崇高な愛を実践したことで、十字架に立ち会った者をして、神をあがめ、「ほんとうにこの人は正しい人であった。」と言わしめるに至り、新しい歴史の流れが始まるようになりました。

聖書によるとイエス キリストは復活し、エルサレムのオリーブ山頂から昇天したとされます。それゆえイエス キリストの再臨はオリーブ山でなされると信じるキリスト教徒もいます。

昇天教会オリーブ山に建つ昇天教会内には復活したイエスキリストがオリーブ山頂から昇天した際に付いたとされる足跡があります。

イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手を挙げて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた。(ルカ24:50-51)

2023年12月19日火曜日

イエス キリスト当時のユダヤ教と洗礼ヨハネ

イエス キリスト当時のユダヤ教

今でこそメシヤとして世界中のキリスト教徒によって信奉されているイエス キリストですが、その当時はどうであったのでしょうか。聖書の記述によると、ユダヤ教の指導層からは煙たがられる存在であったようです。特に次に挙げるパリサイ派から迫害を受けたようです。

イエスの時代、ユダヤ教はいくつかのグループに分かれていました。主なものはサドカイ派、パリサイ派、エッセネ派の3つでした。

1)サドカイ派

モーセを始めとする過去の預言者たちの残した教典のみを重視しました。学問として教えを捕らえていた学者たちが主でした。

2)パリサイ派

タルムードを重視し、ラビの言葉を重視しました。タルムードはユダヤ人のバビロン捕囚と同時代に生まれたユダヤ教典のうちの一つであり、口伝律法の集成です。タルムードは他民族によって迫害され続けた反動でユダヤ人選民思想的な側面が強調されています。

イエスの時代、ユダヤの地はローマの支配下にありました。ローマ人総督の下、王と議会が存在しました。この議会を「サンヘドリン」と呼びました。王もこの会議の決定には逆らえませんでした。パリサイ派はサンヘドリンに大きな影響力を持っていました。

3)エッセネ派

律法を特殊共同体的環境の中で遵守しようとしたグループです。その中核部分がクムランに隠遁したクムラン教団であったようです。クムラン教団とは紀元前二世紀中頃成立した、祭司的要素を基とした特殊共同体で、死海のほとりのクムランの隠遁所で律法を徹底的に守りながら、近い終末に備えようとしていたとされます。エッセネ派の倫理規範は共同体倫理と愛に基づいていました。イエス キリストのようにしばしば譬えや比喩を用いて語ったようです。星を読み、未来を予測し、治療を行ったともされます。また紀元前250年にインド皇帝アショカ王が派遣した宣教師によって伝えられた仏教の思想を採用したと言われています。イエス キリストの親戚洗礼ヨハネはエッセネ派に属していたようです。

ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。ヨハネはらくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。(マルコ1/5-6)

このような川で洗礼を授けたり、修道生活を送るというのはインドの影響を受けていた証拠と考えられます。

洗礼ヨハネ

新約聖書によると、イエス キリストは本格的な活動を始める前に洗礼ヨハネを訪ね、ヨルダン川で洗礼を受けたとあります。洗礼ヨハネは、かねてより自分は水で洗礼を授けるが、自分のあとから来る人は、火と聖霊とによって洗礼を授ける方であり、自分は彼の靴を脱がせてあげる値打ちもないと証言していました。

わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。(マタイ3:11)

そしてイエス キリストが訪ねて来たとき、神の予言どおり、御霊がイエス キリストに下ってとどまるのを見て、神の子であるとあかしをした。(ヨハネ1:33-34)

洗礼ヨハネは、当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれました。

ザカリヤが聖所で香を焚いていたとき、その妻が男の子を懐胎するだろうという天使の言葉を信じなかったために唖となったが、ヨハネが出生するや否や口がきけるようになった。この奇跡によって、ユダヤの山野の隅々に至るまで人々を非常に驚かせた。(ルカ1:8-66)

また荒野での修道生活と民衆に罪の悔い改めをさせ、洗礼を授けるなどの活動により、救世主を待ち望む民衆は洗礼ヨハネがメシヤではないかと考えたほどでした。(ルカ3/15)このように洗礼ヨハネは当時の全ユダヤ人から一目置かれる存在でした。

洗礼ヨハネの誕生前にザカリヤに現れた天使は洗礼ヨハネの将来を以下のように予言していました。

エリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう。(ルカ1/17)

エリヤというのはソロモン王朝の後、王国が南北に分裂した時代の代表的な預言者で、メシヤの到来に先がけて再臨すると信じられていました。

この洗礼ヨハネがイエス キリストと共に宣教活動をしていれば、イエス キリストの生涯はまた違ったものになっていたかもしれません。しかし実際はイエス キリストはユダヤ教指導者から迫害を受け、最後には十字架にかけられ、ユダヤ教とイエス キリストを信じる集団が袂を分かち、最終的にユダヤ教とキリスト教という別の宗教に別れていきました。

当時のユダヤ人たちの願いはもちろんメシヤの降臨でした。しかし、同時に聖書の預言にあるメシヤの前兆とされていたエリヤの到来をも待ち望んでいました。そのような状況下でイエス キリストがメシヤであるというような集団が現れたため、特にユダヤ教指導者に混乱をもたらしたようです。洗礼ヨハネがエリヤの生まれ変わりだとなれば、話はうまくいったのかもしれませんが、聖書の記録によると、洗礼ヨハネ自身が自分はエリヤでないと否認していることから混乱は収まるどころか、さらに大きくなっていったようです。

さてこの洗礼ヨハネの最期は「サロメ」というオスカー ワイルドの戯曲で有名です。この作品はオペラとしても上演されたことがあります。

当時のユダヤのヘロデ王は腹違いの兄弟の妻ヘロデヤと愛人関係になりました。洗礼ヨハネは「兄弟の妻をめとるべきではない。」と非難したことで、投獄されました。ある時ヘロデヤの娘のサロメがヘロデ王の前で見事な踊りを披露しました。ヘロデ王はその褒美に望みのものは何でもつかわすと言ったところ、サロメが望んだものは洗礼ヨハネの首でした。
マルコによる福音書6章

イエス キリストをして女の生んだ者の中で洗礼ヨハネほど大きな人物はいなかったとまで言わしめた人物の最後にしてはなんともあっけないものでした。以後イエス キリストは当時のユダヤ社会の下層階級や弱者を中心にして支持され、反対にユダヤ教指導者など上流階級からは反対されるようになっていきました。

イエスキリスト誕生

イエスキリスト誕生

今日世界中に10億を超える信者を抱えるキリスト教の信仰の中心であるイエスキリストは今から2000年前イスラエルのベツレヘムで誕生したとされます。イスラエル民族のメシヤの到来への期待を背にした誕生でした。

受胎告知教会現在のナザレの地で、ある時聖母マリヤは天使長ガブリエルからお告げを受けたとされます。

「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう。」---「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」
(ルカ1:31-38)

これを記念して、326年コンスタンチヌス大帝の母ヘレナの頼みにより、マリアの家の跡とされる場所に築かれた教会が中東最大のキリスト教会である受胎告知教会です。受胎告知教会には世界各国のイエスキリストを抱いたマリヤの肖像画があります。日本のものもあり、面白いことにマリヤは着物を着ており、イエスキリストは牛和歌丸のような雰囲気をもっています。



その後マリヤは親戚のエリサベツに会いに出かけます。

立って大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家に入ってエリサベツに挨拶した。---マリヤはエリサベツのところに三ヶ月ほど滞在してから、家に帰った。
(ルカ1:39-56)


現在のエルサレム郊外のエインカレムという地に昔ザカリヤの別荘があったとされ、マリアがエリサベツを訪ねたことを記念して建てられたマリア訪問の教会があります。マリヤがエリサベツを訪問した際エリサベツは妊娠6ヶ月であり、胎内の子がマリヤの訪問とともにおどったとされています。

三ヶ月後、マリアは婚約者ヨセフのいるナザレに戻りました。その時マリアは身重になっていました。ヨセフはどれほどびっくりしたでしょうか。しかし、天使が夢に現れてマリアのお腹の子は聖霊によって身ごもったものだと諭されます。科学者の間では卵子に刺激を与えると細胞分裂が始まり、妊娠する可能性もあるなど様々な研究がされたというような話もあります。そのあたりはあまり深く考えるべきではないのかもしれません。

現在日本でも何年かに一度人口調査(国勢調査)が行われていますが、イエス キリスト誕生の時にも大規模な人口調査が行われたようです。イエスの母マリアとヨセフは登録をするためにナザレからはるばるベツレヘムまで旅したようです。ちょうどベツレヘムに来ているときにイエスが誕生されたのです。イエス誕生が西暦の始まりというのが通説ですが、ちなみに当時人口調査を行なったのはローマ皇帝による紀元前7年とシリア提督の行なった紀元前6年であったと言われています。

エルサレムの南の端れ、ベツレヘムにある聖誕教会の中に小さくて暗い岩屋があります。そこでイエスキリストが生まれたとされています。イエスが誕生したときユダヤの地を統治していたのがヘロデ王でした。イエス誕生のその時、ヘロデ王のもとに東から来た博士たちが来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」と尋ねたとされ、それを聞いたヘロデ王は自分の地位を脅かすものとして恐れ惑い、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺すよう命じました。


それに対し天使が夢でヨセフに現われてエジプトへ逃げるように警告したとされています。そしてヨセフ一家はヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在し、ヘロデ王の死後イスラエルの地に戻ったそうです。モーセの誕生と出エジプトの話のパターンにどことなく似ています。ヘロデ王が亡くなった年は紀元前4年であり、以上のことからキリストが生まれたの本当の年は紀元前7~4年と考えられています。

ところでここで出てくるヘロデ王はソロモンに匹敵する建築魔と言われ、壮麗な建築物を多く建設しており、それが今イスラエルの観光名所となっています。イスラエルの商業と産業の中心テルアビブから50kmほど北上したところに位置するかつてローマの総督府が置かれた町カイザリヤには円形劇場を始めローマ風の遺跡が数多くあります。70年のユダヤ戦争最後のユダヤ人が立てこもり自害して果てた死海沿岸のマサダの遺跡もヘロデ王が建てた宮殿跡です。

イエス誕生前のイスラエル

イエス誕生前のイスラエル

紀元前597年に新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを始めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行されるバビロン捕囚が起こりました。

ユダの王エホヤキンはその母、その家来、そのつかさたち、および侍従たちと共に出て、バビロンの王に降服したので、バビロンの王は彼を捕虜とした。これはネブカデネザルの治世の第八年であった。
彼はまた主の宮のもろもろの宝物および王の家の宝物をことごとく持ち出し、イスラエルの王ソロモンが造って主の神殿に置いたもろもろの金の器を切りこわした。主が言われたとおりである。
彼はまたエルサレムのすべての市民、およびすべてのつかさとすべての勇士、ならびにすべての木工と鍛冶一万人を捕えて行った。残った者は国の民の貧しい者のみであった。さらに彼はエホヤキンをバビロンに捕えて行き、また王の母、王の妻たち、および侍従と国のうちのおもな人々をも、エルサレムからバビロンへ捕えて行った。
またバビロンの王はすべて勇敢な者七千人、木工と鍛冶一千人ならびに強くて良く戦う者をみな捕えてバビロンへ連れて行った。
(列王記下24:12-16)

紀元前547年、ペルシャ帝国のクロス王はバビロニア帝国の北側を支配下に置き、自らを「解放者」と宣伝し、諸国民のバビロニア帝国への不満をうまく吸収し、紀元前539年にバビロンに入城し、紀元前538年、その言葉どおり諸国民に自国への帰還と宗教復興を布告しました。

これはエレミヤの口によって伝えられた主の言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息をうけた。すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた。
ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動されたので、王はあまねく国中にふれ示し、またそれを書き示して言った、
「ペルシャの王クロスはこう言う、『天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに賜わって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆、その神、主の助けを得て上って行きなさい』」。
(歴代誌下36:22-23)

バビロニア捕囚中のイスラエル民族の中には、ダビデ王家はもはや神に見捨てられた人々と考える人々と、このダビデ王家を中心に国は再建されると考える人々がいましたが、バビロンの捕虜生活から帰還してきたイスラエル民族は、破壊された神殿を再建し(紀元前515年、現在第二神殿と呼ばれている新しい神殿が完成)、マラキ預言者の指導によって、邪神を崇拝してきた過去の罪を悔い改めながら、律法を研究し、信仰の刷新運動を起こしました。マラキは、律法が厳格に守られず、特に犠牲の祭儀がないがしろにされ、異教徒との結婚が行われ、結婚の契約が破られ、十分の一税が納められていないことを批判しました。またイスラエル民族のメシヤ待望の期待に拍車をかけるように、メシヤの降臨に先立ち、預言者エリヤが遣わされることを説きました。

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。(マラキ4:5)

ちなみにマラキ預言者というのは南北に王朝が分裂していた時代に登場した代表的預言者です。

メシヤという言葉は、ヘブライ語で油を注がれた人を意味し、特に王を意味する言葉です。メシヤ到来により他国の属国となるなど苦難の道を行くイスラエル民族は解放され、イスラエルが復興すると信じられていました。

2000年近く流浪の民として世界各地に散らばり、多くの迫害を受けつつも、自らの伝統を守り続け、異様なまでの執念でイスラエル建国を果たしたユダヤ人の強さはこのメシヤ思想に由来するところが多いのではないでしょうか。

イスラエルでイエスキリスト誕生前に急速にメシヤ到来に対する期待が高まりましたが、その一方イスラエル以外の世界はどの様になっていたでしょうか。その時代に、インドでは釈迦牟尼(前565~485)によって仏教が起こっていました。ギリシャでは、プラトンやソクラテス(前470~399)などの哲学者が現れ、ギリシャ文化が花開いていました。中国においては、孔子(前552~497)が現れ、儒教が起こっていました。地中海には強力なローマ帝国が勃興し、広大な政治的版図と、四方八方に発達した交通の便、そして、ギリシャ語を中心として形成された広範なる文化的版図ができあがっていました。この様にこの時代は特殊な時代であったとみることができます。