2023年12月18日月曜日

ソロモン王の時代

ソロモン王の時代

ソロモン王は父ダビデ王の意志を引き継いで最初の神殿(現在第一神殿と呼ばれている)の建設をその治世の代4年目の紀元前1034年に開始し、治世の代12年目の紀元前1026年に完成させたとされ、この神殿はその後、ネブカドネザル王が率いるバビロニア帝国軍に滅ぼされる紀元前607年まで存続したとされています。

このソロモン王は、非常に聡明な王だったと言われます。政治の組織作りや文化事業など、あらゆる面に彼の知恵は発揮されたとされ、統一王国は大いに発展しました。

ソロモン王に関する有名な話として、その名裁きがあります。

それぞれ1人の赤ん坊を自分の子供だと主張する2人の女がソロモン王のところに訴えてきました。そこでソロモン王は二人にある提案をしましたた。それは刀で赤ん坊を二つに切って、半分づつ分けるというものでした。その提案に対し、一人は赤ん坊をそのまま相手の女に渡してくださいと訴え、他方は提案どおりにしてくださいと訴えた。それを聞いたソロモン王は最初の女こそ実の母親であると見極めたといいます。

「そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。
王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。
すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。
イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。」(列王記上3:24-28)

繁栄を極めていたイスラエルの統一王国には多くの客人が訪れたとされます。その中には現在のエチオピア系のユダヤ人の由来を語るのに重要なシバの女王(queen of sheba)も含まれます。シバの女王はソロモン王の物語に登場するアラビアの女王です。シバは国名で、南アラビアの人々、およびそこから紅海を渡ってエチオピアに植民した人々を、旧約聖書は「シバ人」と呼んでいます。

シバの女王はソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやってきたが、ソロモンはその全てに解答を与えたとされます。

「シバの女王は主の名にかかわるソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようとたずねてきた。
彼女は多くの従者を連れ、香料と、たくさんの金と宝石とをらくだに負わせてエルサレムにきた。彼女はソロモンのもとにきて、その心にあることをことごとく彼に告げたが、ソロモンはそのすべての問に答えた。王が知らないで彼女に説明のできないことは一つもなかった。」(列王記上10:1-3)

エチオピア建国の祖メネリク王は、ソロモン王とシバの女王の子という伝説が、現在も残っているそうですが、エチオピア系ユダヤ人の由来はこの時代のイスラエルとエチオピアの交流にまでさかのぼって語られます。

ちなみにエチオピア系ユダヤ人は1985年のモーゼ作戦と1991年のソロモン作戦と呼ばれる軍用機を用いた大空輸作戦で多数がイスラエルへ移住しました。しかしユダヤ人の血を引くといっても肌の色は全く異なり、イスラエルの中に少なからぬ人種問題を引き起こしています。

ソロモン王は非常に優れた王でしたが、男性の共通の弱点である女性問題には打ち勝つことはできなかったようです。ソロモン王は700人の王妃と300人の妾をかこっていたそうです。特にその晩年には異教徒の王妃や妾の影響を受け異教を崇拝するにいたりました。

「彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。その妻たちが彼の心を転じたのである。
ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。これはソロモンがシドンびとの女神アシタロテに従い、アンモンびとの神である憎むべき者ミルコムに従ったからである。このようにソロモンは主の目の前に悪を行い、父ダビデのように全くは主に従わなかった。そしてソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。」(列王記上11:3-7)

中国の唐の時代の名君とされる玄宗皇帝が楊貴妃を溺愛し、そのことが唐の滅亡へとつながったように、ソロモン王の晩年の醜態はその後の統一王国の分裂へとつながることになります。

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