2023年12月19日火曜日

世界の宗教の結婚観

世界の宗教の結婚観

愛の定義

  • 主体が対象に授ける情的な力 
  • 分立された二性の対象実体が再び合性一体化せんとする力

愛における力とは何か?

愛における力とは主体と対象が互いに相手に与えようとする情的な力です。情的な力とは相手に温情を施して相手を喜ばせることによって、自身も喜ぼうとする心の力のことです。ゆえに肉体的だけではなく精神的にも大人になり、相手を思いやるという愛が心の中に宿るようになって夫婦となれば、性はお互いの愛を深め子孫を繁栄させるための祝福となります。しかし時期が来ていないのに、快楽という結果だけを求めると、それを得られないばかりか、苦痛と苦い後悔を味あわなければならなくなってしまいます。人間の心は肉体の刺激によって得られる喜びよりも真善美愛といった精神的要素によって得られる喜びがずっと大きいものです。

男女の結合は単純な生物的結合ではなく、愛による人格的結合として、古来から多くの宗教では男女の結合を神聖視し、一定の宗教的儀式に従って結婚行事を行ってきました。

キリスト教

「あなた方は悪魔から出てきた者である。」(ヨハネ8/44)
「家の者が、その人の敵となるであろう。」(マタイ10/36)
「私のように一人でおればそれがいちばん良い。」(コリント17/8)

上記のような聖書の記述を見ると、イエス キリストや使徒パウロが世俗的な結婚をよしとしていないことが分かります。またキリスト教には陽陰といった概念規定がないのでともすれば一切を善悪概念で説明しようとする傾向があります。より精神的なものが善で、より物質的なものが悪であるというようにとらえやすいです。肉体や物質を神から遠く離れた汚れたものとみなし、男女の性を意識した愛は愛の中でもランクが低いとみなされやすいです。カトリックの神父や修道女は生涯独身を通さなければならず、結婚すると聖職を追われるのもその一例です。

一方でキリスト教の結婚儀式は、婚姻による男女の結びつきは神により合わせられたものとして行われるます。

米国では1960年代に男女の愛と性をタブー視するピューリタン的道徳に挑戦するかたちでカウンターカルチャーとしての性革命が起こり、婚前交渉、婚外交渉が一般化し、同性愛も公然と自己主張を始めました。一部のキリスト教会では同性愛者の聖職者も現れるなどして、伝統的な道徳観念は変化しつつあります。

 

ユダヤ教

ユダヤ教では、結婚を神聖なものとしています。結婚誓約式のことをヘブライ語でキドゥシン(Kiddushin)といいますが、神聖を意味するアラム語カドシュ(Kaddish)に由来します。

伝統的にユダヤ教の結婚式はケトゥバと呼ばれる結婚誓約書にサインすることから始まります。 サインの後新郎は新婦のもとに行き、新婦のベールをとって、本当の新婦かどうか確認する儀式をします。これは旧約聖書のヤコブが本当に結婚したかったラケルを装ってベールで顔を隠してやって来たレアと一夜を共にして結婚しなければならなくなった話から来るものです。

結婚は聖なる契約であり、結婚の解消は神聖さを汚す行為と見なされます。妻の不義による離婚のような場合を除き、離婚する場合には、妻に対してかなり多くの補償金を支払わなければなりません。


仏教

仏教は一切衆生は皆仏性を備えており、男女は互いに愛して、結婚し、夫の道理、妻の道理を尽くしながら家庭を形成することを教えています。しかし一方では異性に対する愛を渇愛や愛欲として、物欲と共に捨てなければならないと教えてきました。 

原始仏教では人間は全ての愛着と憎悪を断ち切ることによってはじめて、一切の束縛から解放され、永遠の平安、完全な平和を得ることができると考えました。原始仏教は人間の欲望に対して否定的であり、倫理の面では禁欲的な立場を貫いています。

真言密教では森羅万象をを金剛界と胎蔵界の二つに分け、男女両性に配している。理知の合一と男女の結合とを同一と見、交接を即身成仏の秘事としました。男女の性行為をも含め種々の外界の影を取り去るならば、欲望は清浄なものであると説きました。


儒教

男女は格位において差があるが、愛においては両者は平等であると教えます。しかし実際の家庭生活において、権利は男だけに与えられており、女には従順と義務だけが要求されていることが多くありました。

愛が冷え、夫婦関係が破綻しても、子供のために家庭の枠組みだけは守るという儒教型家庭は、欧米の夫婦中心の家庭(夫婦の愛が冷めると、子供におかまいなくさっさと離婚する)に比べると利点をもっていました。何故なら夫婦の仲が悪くても離婚しないほうが子供にとってはよいことが明らかになってきているからです。儒教型の子供中心の家庭生活を守ってきたのはもっぱら女性でした。儒教型の伝統的家庭では、女性は妻として夫に、母として子供に仕えてきました。しかしその女性達が一方的な忍耐と奉仕を拒絶するようになり、儒教の結婚と家庭の伝統は崩れつつあります。


 近代以後の女性解放運動

宗教が教理上では女性を重視しながらも、現実的には差別待遇が長い間継続してきたために、それに対する女性達の積もり積もった不満が表面化することによって現れました。多くの国で女性解放運動の要求が法律に反映されるようになりました。自由恋愛と恋愛結婚があらゆる形の愛を受け入れる社会運動から出てきました。この運動の当初の目的は、結婚、避妊、不倫といった性的・恋愛的な問題から国家を切り離すことでした。そのような問題は当事者たちの問題であり、他の誰の問題でもないとしたのです。この運動は19世紀ごろに始まり、60年代にはヒッピーたちによって推進されました。しかし家庭崩壊等の別な問題が起きるようになりました。 

 

世界平和家庭連合

男と女はそれぞれ陽と陰として、創造主の中では心情の力を中心として合性一体をなしていました。その陽性と陰性が創造と共に男性と女性に分立されたのであり、従って心情によって、一体をなしていた本来の姿に戻ろうとする衝動が生じるのです。

本然の世界では愛の秩序が厳格に守られるようになっています。家庭において祖父と祖母、父と母、息子とその嫁等、各代の夫婦の間にだけ異性の愛(すなわち性行為)が成立します。それ以外は父母の愛、子女の愛、兄弟姉妹の愛があるだけです。また不倫の愛も絶対にありえません。この家庭の愛の秩序を破壊したのがサタンです。サタンはアダムの配偶者となるはずのエバを被原理的な性的愛で誘惑して堕落させ、天道の秩序を破壊したのです。

全ての被造物は神の個性真理体であり、従って全てが神聖であり、そこに汚らわしいものは何もないのです。とりわけ人間は神の完全なる似姿であり、それ故に人間は被造物の中で最も高貴で神聖です。従って人体の構成部分はいかなるものでも高貴なものです。人体の器官の機能は神の創造目的を実現させる目的をもっています。その中でも性器官は次世代の生命を創造する器官であり、神が創造した最も神聖な器官です。

愛の完成を結び間違い、結婚を誤ったので、神を中心として正していくべきなのです。

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